2025年04月01日

立教188年・四月月次祭神殿講話

立教188年・四月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の四月の月次祭、並びに春の霊祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

つい先日、父の命日がありましたし、今日は霊祭をつとめさせて頂きましたので、父の思い出でもお話しようかなと思います。

しばらくお付き合いください。

柏手

先月、春の学生おぢばがえりのひのきしんをつとめさせて頂きました。
ひのきしんをつとめると、やはり嬉しいことが起こります。とてもとても、嬉しいことがありました。

今回初めてお会いした、ある教会の奥様が、私の法被を見て、
「お父さんに、お世話になりました」と話しかけられました。
続いて、
「大きい方でしたが・・・」
と仰りながら私の身体を上から下まで眺めて、
「似ておられませんね」
と仰いました。

とてもとても、とてもとても、嬉しかったです。

私は子どもの頃から、
「お父さんにソックリやね。かわいそうに」
と言われてきました。
父をよくご存じの方から似ていないと言われたことが初めてで、めっちゃくちゃ嬉しかったんです。

一方で、父に似ていると言われることの、そもそも何がそんなに嫌だったのか?というのも、この出来事の直前に腑に落ちていました。

前日に、布教の家の卒寮の集いという行事がありました。
その席で、ある卒寮生の悩みが、私の無自覚の心の縺れをほどいてくれたんです。

彼いわく。
「僕、見た目が賢そうやから、賢い子って扱われがちなんですけど、ホンマはアホなんです」
と。

一見笑い話のような一言ですが、私は、自分も全く同じだと思いました。
そして何より、そのむき出しの正直さが、めちゃくちゃ羨ましく思いました。
自分もこうありたいと思いました。

私も同じく、賢そうに見られます。
父が賢かったから、余計にそう見られます。
私も彼のように、真っ正直に、見た目は賢そうに見えても、ホンマはアホなんですと言えば良いのですが、そう言えず、本当のアホな自分を隠さなければならないと、必死な想いを、知らず知らず抱えていました。
アホさに加えて、くだらないプライドが、私の心の邪魔をしていたのだ。だから、父に似ていると言われることが、嫌で嫌でしょうがなかったのだと、彼のたった一言で気づかされました。

顔は似ていても、私と父は、それぞれ違う人間です。
皆様の親子や兄弟姉妹も、みんな一人一人、似ていても違います。
違っていて良いし、似ていて良いんです。

違っているから、自分ができることを、自分らしくやれば良いんです。
個性にフタをする必要も、我慢する必要もありません。誰かの個性を否定する必要もありません。
それぞれの自分らしさを活かして生きれば、それで良いんです。

また、似ているからこそ、得することもたくさんあります。
私は、父と似ているから、色んな方から声をかけて貰えます。御用も与えて貰えます。そうして今回のように、自分の無自覚の心の縺れをほどいて貰える。救われるんです。
有難すぎることだなぁと思います。

教祖は、
『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』
稿本天理教教祖伝逸話篇九〇 一代より二代
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/247004998.html
とお教え下さいます。

私は、親と比べられるのが苦痛で、似ていると思いたくなかった。
けれども、神様の目から見れば、父の歩んだ道の後に、私が歩むことこそを、楽しみにして下さっている。
更に言えば、私の歩んだ後を、我が子達が歩む姿を、神様はより楽しみにして下さっている。
これは、血縁だけに限りません。
自分から後に繋がる人の歩みをこそ、神様は楽しみにされています。
だからこそ、親に、この教えを自分に伝えてくれた人に感謝し、自分の後に歩む人へバトンを渡すことを楽しみにし、今を楽しく、懸命に歩むことができるのだと思います。

最後に、私が私の誕生日の度に、晩年の父、また母へ伝えていたことをお話しいたします。

この素晴らしい世界に、私を生んで下さり、ありがとうございます。
そしてこの間違いのない教えを伝えて下さり、ありがとうございます。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇九〇 一代より二代 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/247004998.html
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2025年03月01日

立教188年・三月月次祭神殿講話

立教188年・三月月次祭神殿講話


https://youtu.be/gPCyMNNFRa0




ただいまは、当教会の3月の月次祭を賑やかにつとめさせて頂き、誠にありがとうございます。

先月は、私の信仰の元一日を考える場面が多く有りましたので、それを台に、ひと言お伝えさせて頂きたいと存じます。
しばらくお付き合いください。

柏手

ギターを買いました。
娘からねだられてのことですが、自分の為だと頑張れないことも、子どもの為なら頑張れるものです。

高いモノは買えませんが、楽器はある程度、良いものを使った方が将来の耳や手の為にも良いと思っています。

早速、友人知人に使わなくなったギターが無いか声を掛けて回りましたが、見つかりません。

中古屋さんを回ってみても、やはりなかなか見つかりません。

大教会の当番からの帰り道、1号線沿いにあった、BOOK・OFFバザーに寄ってみました。

処分品のコーナーに、通電しない、つまり、音の鳴らないエレキギターと並んで、ピアノで有名なカワイ楽器のアコースティックギターがありました。
値段は五千円。普通なら10万円近くするハズです。
店員さんに、どこが悪いのか聞いたところ、ブリッジが剥がれていて、修理が必要だと仰いました。
迷いましたが、メーカーから考えて、破格の値段です。
貯まっていたポイントで、実質無料で購入し、修理しました。

素人が修理したので、不安もありましたが、チューニングして鳴らしたところ、とてもとても、とてもとても良い音で鳴ってくれました。

その瞬間、情景がフラッシュバックしました。

ご承知のように、私の信仰の元一日は、精神科の閉鎖病棟です。

閉鎖病棟は、強制的に退屈な時間を過ごさせる場所です。

楽しみと言えば、三度の食事と、テレビでの相撲観戦くらいのものでした。

そんな中に、誰も弾くことの無い、アコースティックギターがありました。

私も、全く弾けません。
当然、チューニングもできません。
チューナーも音叉もありません。
ギターの教本や譜面もありません。

ある時、何となく弾いてみたら、弦が切れました。

ギターを弾ける看護師さんが交換してくれて、チューニングも合わせてくれました。

と言って、弾いてくれる訳でも、教えてくれる訳でもありません。
ただ、元通りに置かれ、誰にも触れられずに佇んでいます。

もう一度、弾いてみました。
とてもとても、美しい音が鳴りました。
その音に、人が集まって来ました。
コードもリズムもメロディも何一つ合って居ないのに、楽しそうに歌い始める人もありました。

あまりの情報量の多さに、私は頭痛がし始め、しばらく寝込みました。

ギターは、それ以来、弾いていませんでした。
17年近く経って、その当時の情景も、感情も、全てが丸ごと、フラッシュバックして来ました。

集まって来たのは、患者仲間ではなく、妻と子ども達でしたが。

少し話は変わりますが、時を同じくして、ある、道の学生と語り合う機会がありました。
布教を志す子で、生まれ育った教会も、非常に布教熱心で有名な教会です。

ただ、彼の話を聞いていると、自分を上手く褒められない。人には尽くさなければならない。人の為に何かやっていないと、自分には価値が無いような気持ちになっている。そんな思考の癖が見えて来ました。

まさに、信仰の元一日の頃、私が無自覚に陥っていた思考の癖そのものでした。今もその癖が無くなった訳ではありませんが、だいぶと、自覚はできるようになって来たかと思います。

また、自殺未遂され倒れている方の救急搬送のおたすけも、仲間と共に、関わらせて頂きました。

信仰の元一日が大切だと、良く聞かされますが、私ももちろん、忘れている訳ではありません。

しかし、何故こんなにも立て続けに、信仰の元一日をアリアリと思い返さざるを得ないような場面が起きるのか、少し思案してみました。

私の信仰の元一日は、17年前の5月の末のことです。
年数も中途半端だし、日程もまだ少し先のことです。

ですが、17年。
別席は、満17歳の月から、運べます。
既に教会長として、十年つとめて居るけれども、信仰の元一日から数えれば、ようやく、別席を運び始められる年限しか経っていません。

それを、悟りの鈍い私の為に、3ヶ月早く教えて下さった。いや、むしろ、願書の準備や巡序運びを考えれば、丁度良いタイミングでお知らせ下されたのだと思います。

5月から運び始めれば、ちょうど、教祖140年祭のおつとめがつとめられる来年1月に、満席、ようぼくと成れる計算です。

私のおたすけ人としての歩みは、まだまだこれからです。

逸話編に、たすけて頂いたご恩返しについて、
「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」
と、伺うと、教祖(おやさま)は、
「人を救けるのやで。」
と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか。」と、お尋ねすると、教祖は、
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と、仰せられ
(稿本天理教教祖伝逸話篇一〇〇 人を救けるのやで)
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/252839007.html

たとお教え下さいます。
御参拝の皆様には、それぞれ、信仰の元一日、たすかりの元一日があります。
それをひと言で良いので、人に伝えて行って下さい。

ちなみに私は、布教を志す道の学生さん、自己肯定感が低く、自己犠牲の感情が強すぎる彼に、こう伝えました。

私は、あなたの、仲間です。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
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2025年01月04日

立教188年・春季大祭神殿講話。

春季大祭神殿講話。






ただいまは、当教会の春の大祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠に有難うございます。

まず、諭達第四号を拝読させて頂きます。

柏手
(諭達第四号拝読)
有難うございました。
柏手

引き続きまして、神殿講話をつとめさせて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

昨年末、ある信者さんが参拝に来られました。
全身が浮腫み、特に足は、破裂寸前の風船のようにパンパンに膨らんでいました。
しばらく前から体調が悪く、休んでいたけれども、全然よくならないので、参拝に来たとのことでした。
早速おさづけを取り次ぎ、車で病院まで送りました。

そのクリニックから、救急病院に搬送され、診断は、心不全。
冠動脈の一つが壊死していたとのことでした。

よく無事に教会まで来てくださったなぁと思いました。

この一件で、頭の中に浮かんでいた言葉があります。

十二月の布教の家大阪寮の寮祭で、副寮長先生がお話しくださっていたことです。
ある、レジェンド布教師の方で、その布教所にたすけを求めて来た方は、必ずたすかると信じ切って居られる。
なぜなら、そこに導かれて、来れたのだから、たすからないハズが無い。そしてそれが客観的にたすかっていない様に見えても、それが一番の御守護なのだと、信じ切って居られるというお話でした。

パンパンに浮腫んだ姿、椅子に座るのも、立つのも、一人ではできない程の状態で、バスに乗って教会まで来られた。その姿を見て、このお話を思い出し、あぁ、絶対間違いないなと思いました。

今もご入院中ですが、病状は回復して居られ、週明けにカテーテルの手術を済ませればスグに退院できるとのことで、

なかなか、信じ切るというのは難しいものですが、お話を伺ってから一ヶ月も経たずに、その証明を見せて頂けた。
疑う心の取り切れない私には、有難すぎるおたすけに携わらせて頂けています。

さて、あちらの壁に、今年の書初めを掲示しております。

「凭れる」

と書きました。
人間は、普段、それぞれの身体を、自分のモノと思って、それこそ、信じて疑わない日々を過ごしています。
しかし、ひとたび風邪を引けば、自分のモノであったハズの身体を思うようにできない。
また心ですらも、ほんの少しツラいことが起これば、ふさぎ込んだ気持ちになってしまう。
色んな体調、出来事によって、私たちは、翻弄されていると言えるかも知れません。

人間にできるのは、車のハンドルを切るように、自分の心の核の部分の方向を、ほんの少し変えることだけです。
出来事のすべてを、神様にお任せするように。神様の方へ、喜びの方向へ、心の向きを変えることだけです。

今年は、ハガキの値段が上がった為か、年賀ハガキではなく、LINEやメールで年賀メッセージを下さる方が増えました。
その中に、とても素敵な動画を下さった方がありました。

年の移り変わりを、列車に例えた動画でした。

まもなく、次の駅、2025年駅に到着いたします。
2024年号に御乗車の皆様、長らくのご利用、誠にありがとうございました。
なお、次の駅「2025年」行きの列車には、
悲しい思い出や嫌なことは、
お持ち込み禁止となっております。
どうぞそのまま、御忘れ物として、この駅に置いて行ってください。
次の駅に持って行く荷物は、
楽しかった思い出や、心温まる出来事だけで大丈夫です。
新しい年には、また新しい出会いや幸せが待っています。
2025年への準備は整いましたか?
この後、まもなく発車いたします。
それでは、素敵な新年への旅をお楽しみください。

という内容でした。

今年一年、自分が身体を動かしているのではない、神様が動かして下さっているのだと信じ、すべてお任せする心、陽気づくめの心向きで、通らせて頂きましょう。

ふじゆなきよにしてやらう かみのこゝろにもたれつけ(九下り目)
天理教勉強blog: みかぐらうた解釈13 九下り目。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/126589440.html

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
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2024年12月01日

立教187年・十二月月次祭神殿講話

立教187年・十二月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の本年納めの月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

年末です。
年末といえば、大掃除。
というわけで、心の掃除についてお話させて頂きたいと存じます。しばらくお付き合い下さい。

柏手

皆様は毎日、特に寝る前に、歯磨きをされていると思います。
歯磨きを忘れて寝るのが気持ち悪く思う人も多いのではないでしょうか。

私は、信仰の元一日の身上を頂いた後、歯の食いしばりがひどく、当時、大変歯を悪くしましたので、歯磨きにはかなり気を使っています。

歯ブラシで十分くらい磨いた後、奥歯の隙間をフロスで掃除し、手前の歯の隙間は、歯間ブラシで掃除します。

毎日です。
しかし、それだけ磨いていても、歯科検診に行けば、磨き残しを指摘されます。
同じような経験をされたことのある方は、多いのではないでしょうか。

また、歯磨きの仕方と言えば、歯ブラシはできるだけ弱い力で磨く方が良いと、歯科医院で教えられたという方も多いと思います。

私もできるだけ力を入れないように気を付けていますが、力を抜けば抜いたで、ブラシの焦点が定まりにくくもなります。
歯磨きひとつ取っても、汚れを掃除するというのは、なかなか奥が深いものです。

歯磨きから悟り取れることは、実は、掃除ばかりでなく、音楽でも、スポーツでも、書道でも、大工仕事でも、料理でも、人生のあらゆることに共通します。

歯ブラシにはできるだけ力を入れず、ブラシのコシを活かして、かつ焦点を定めて磨く方が、力を込めて磨くよりも、遥かにキレイになります。
掃除で使う、束子でも箒でも同じです。

大工仕事でも、熟練の大工さんは、金槌で釘を打つ際、そんなに強い力は込めません。金槌そのものの重さと、釘への焦点をしっかり定めていれば、あっという間に打ち込まれて行きます。鉋掛けや鋸も、手作業ばかりでなく、電動のものを使う場合でも、同じことが言えます。

道具を使う作業では、その道具がしっかり手入れされているものであれば、力を入れ過ぎず、その道具が持つ作用を邪魔せず、しっかり焦点を定めることが何より大切です。

しっかり研がれた包丁を、鯛の前歯の真ん中に押し当てれば、それほど力を込めずとも、鯛の頭を二つに割ることができます。

今年のNHKの大河ドラマでは、役者さん自身がその筆を実際に書いておられました。
主人公・紫式部を演じる吉高由里子(よしたか ゆりこ)さんは、実際は左利きだそうですが、演技の為に、右で書かなければならなかったそうです。
相当、役者泣かせの演出ですが、字は体を表すという言葉通り、文字と、それぞれのキャラクターの人間性がリンクする配慮とも言えるでしょう。

その中で、藤原道長は、史実としても、筆があまり上手ではなかったと言われています。
実際ドラマの中でも、若い頃はお世辞にも上手いと言えない筆遣いの文字が映され、歳を重ね、出世するごとに書かなければならない頻度も増えて、筆遣いも上達していく様が映し出されていました。

ここでもやはり、上手くない筆遣いは、筆のコシを潰すようにベットリとした運びで、上達すると、筆のコシを活かした運びになっていました。

道具を使う動作ばかりではありません。
大谷翔平さんの動きを見れば、力任せではなく、そのしなやかさを活かした動きで、ホームランも盗塁も量産されていました。
もちろん、基礎練習が不要な訳ではありません。しかしその基礎練習も、しなやかな動きを邪魔するような大きな筋肉を付けるのではなく、身体の動きを支え、インパクトを込める焦点を外さない為のトレーニングをされています。

今年、修養科教養掛をつとめさせて頂いた際、毎日毎日、修練でみかぐらうたを歌いながら、もっともっと、理想的な歌い方をしたいと思うようになりました。
教養掛を終えて、Youtubeでボイストレーニングの動画を見漁りました。
その中で、Mrs. GREEN APPLEのボーカル・大森元貴さんの言葉が印象に残りました。
強い裏声が印象的なシンガーですが、その感覚は、針に糸を通すようなイメージと仰っていました。

ある程度のトレーニングをすれば、身体が鳴ってくれるようになる。しかし、その焦点を定めて表現することは、力強さよりも、かなり繊細なものなのだと伝えたかったのかと思います。

掃除の話題から、歯磨き、そしてそこで意識すべきことは、どんな作業、動作にでも、すべて共通することなのだと見てきました。

私たち一人一人に貸し与えられている、生身の体も含め、すべての道具を丁寧に手入れし、その道具の性質を存分に活かして、かつ、しっかりと焦点を定める。
私たち一人一人は、おたすけ人として、それができているでしょうか?

私は正直言って、できていません。

今年は、私なりに精一杯、心を掛けて接した方々が、数多く出直されました。

寂しい想いで、心に穴が開きまくりです。

ですが、それだけ寂しく思えるというのも、あまりにも贅沢で、有難すぎることなのだと思います。
にをいがけ・おたすけで接する人の大多数が、そこまで心を通い合わせて過ごせない方ばかりですから。

だから。
まだまだこれからです。

おさしづに
今年で行かんというは、来年という。三年経てば、又分かる。どうなろうか知らん、こうなろうか知らん、思い掛けたら、闇の晩に歩くも同じ理。うっとしいてならん。成るも理、成らんも理、天然の理から心悠うくり持って
(明治三十四年二月二十八日 土佐卯之助四十七才身上願)
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431082636.html

とお教え下さいます。

来年は教祖140年祭活動の三年目です。
教祖140年祭のその日まで、残すところ一年と一か月。
お借りしている身体を、ただただ活かし、その焦点を外さぬよう、繊細さも併せ持って、つとめ切らせて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治三十四年のおさしづ(公刊おさしづ第五巻より)その1 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431082636.html
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posted by 朱夏 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとことのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月03日

立教187年・秋季大祭神殿講話

立教187年・秋季大祭神殿講話






ただいまは、当教会の秋の大祭を賑やかにつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

まずはじめに、諭達第四号を拝読させて頂きます。

柏手

諭達第四号拝読

柏手

引き続きまして、ひと言お伝えさせて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

先日、災害救援ひのきしん隊の一員として、能登の被災地へ行かせて頂きました。

ご承知の通り、元日の地震と九月の水害で、大変な被害を被っておられます。
実際、現地に行ってみると、想像を超えていました。
地震の爪痕もまだまだ残る中、お宅によっては、180センチの床上浸水。すぐ横の空き地には、流されて内部がすべて泥だらけになった車が、ほぼそのまま放置されていました。

最後に作業に入らせて頂いたお宅で、作業を終えた時のことです。

「これでまた、頑張れる」

と、涙を浮かべながら仰られました。

今まで、熊本や北摂、福知山など、地震や水害の被災地でも活動させて頂きましたが、こんなにも重さを感じた言葉を頂いた現場は初めてでした。

「ありがとう」
「たすかった」

という言葉よりも、「また頑張れる」という言葉は、とてもとても重く感じました。

結隊式の際に、石川教区隊の隊長さんが、「能登の皆さんは、心が折れてしまっています」と仰っていた意味を、「また頑張れる」という一言で痛感しました。

ちょうど、私たちが、天理教災害救援ひのきしん隊として能登半島豪雨災害支援に入らせて貰う最後の隊でしたので、解隊式の際には、現地の社会福祉協議会の次長さんも来てくださっていました。
「ひのきしん」という言葉に馴染みのない口調で、目を潤ませながら御礼を言って下さる姿を見て、初対面ながら、私も胸がいっぱいになりました。

先ほど拝読した諭達第四号の中で、

「頻繁する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。
一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている。」

と示して下さっています。

自然災害に限らず、私たちに起こる、すべての「困った」「苦しい」と感じてしまう出来事はすべて、罰ではなく、互いにたすけ合うチャンスをお与え頂いているのだと思います。

私自身、何ができるという訳ではありません。
同世代の人と比べて、ほんの少し健康で元気だというだけです。
元気ですが、水害の現場では、水を吸った畳一枚、一人で運こぶことはできません。他の仲間と一緒になってようやく、被災現場が片付いていきます。
しかも、その一つ一つ、瓦礫と呼ばれてしまうその一つ一つは、災害が起こる前日まで、そこで住まう方の生活を支える家財道具であった物です。
それがどれほどツラく悲しいことなのか、想像もできませんが、それでも、それらが片付き、お孫さん達の写真が出てくることによって、折れていた心が、「また頑張れる」という心に切り替わっていきます。
これは、災害に限らず、すべてのおたすけが、同じだと思います。

ツラく苦しい中を、ほんの少しでも、その心が軽くなるように接する。
それによって、自分自身が何も知らなかったんだということを、教えて頂き、また新たな一歩を踏み出す力になっていきます。

どこまでも、子供可愛い親心の中で、育まれているのが、私達人間です。
だからこそ、その心を一つに結んで、互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方を一歩一歩積み重ねて行くことが、人間の生きる道だと思います。

最後に、災害に関するおさしづを引用して終わらせて頂きます。

同じ一腹一種、我が身になるあたゑ、兄弟という親族という、皆結んでくれ/\。雨風や/\。あちらこちら津波や、地震やと言うても、遠い所は怖わいようで、聞いて真の心に無くばつい/\忘れて了う。よう聞き分ける者だけ聞き分けてくれ。聞き分け出けん者はどうもならん。(明治二十九年十月十日 夜十二時三十分)

これからも、おたすけの輪を拡げて行きましょう。

ご清聴ありがとうございました。
柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治二十九年のおさしづ(公刊おさしづ第四巻より)その3 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/425711333.html

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posted by 朱夏 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとことのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月01日

立教187年10月月次祭、並びに秋季霊祭神殿講話

立教187年10月月次祭、並びに秋季霊祭神殿講話





ただいまは、当教会の十月の月次祭、並びに、秋の霊祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

ひと言お伝えさせていただきます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

霊祭の祭文で奏上致しました通り、今回は、たくさんの方々を合祀させていただきました。
つまり、出直された方が、とても多い半年でございました。

特に、四月九日、十日には、二日連続でのお出直しがあり、私自身、教養掛としておぢばでつとめておりましたので、なかなか大変な日々でした。
御葬儀の形も、大学病院への検体を希望されての病院霊安室でのお見送り、直葬前のわずかな時間での一日葬というよりは一時間葬、また、昔ながらの二日間に亘る御葬儀をさせて頂いた方もありました。

それぞれに、御出直しされるまでの関わりでは、病院にオムツを届けたり、入院転院の手続きをお手伝いしたり、手術に付き添ったり、車いすでおぢばがえりして頂いたりと、私なりに深くおたすけさせて頂いた方ばかりですので、私の心は、寂しい気持ちでいっぱいになっています。

そんな中、実は、今回あえて合祀させて頂かなかった方のお出直しもあります。
私はこれまで、おたすけで少しでも関わらせて頂いた方には、御葬儀はできなくても、可能な限り合祀し、朝に夕に御挨拶させて頂きたいと思っているのですが、ある一定の基準を考えています。
まず、ようぼくになって下さっているか、別席運び中であること。ご家族御親族の了解を得られるか、あるいは実質的に天涯孤独であること。です。
今回あえて合祀させて頂かなかった方は、教会の朝夕のおつとめに何度も参拝してくださっていましたし、月次祭にも何度かご参拝くださいましたが、別席は運ばずじまいでした。また、直接お会いしたことのないお兄様がおられ、了解を取ることができませんでしたので、合祀を見送らせて頂きました。

この方は、元統一教会の信者さんで、統合失調症を患っておられ、この教会から徒歩十分ほどのところで一人暮らしをされていました。
ここ数年、しんどくなったら朝夕のおつとめに参拝に来られ、おさづけを取り次ぐ。また時々、天理教の教えと統一教会の神様の解釈の違いを電話で質問してこられる、しばらく連絡が途切れた時には、お宅におさづけに伺うという関係でした。
昨年末に末期癌が発覚し、入退院を繰り返しておられました。

修養科の教養掛をつとめさせて頂く上から、お宅にもお邪魔できなくなるので、3月後半、他の通い先も含めて、挨拶周りをし、この方のお宅にもお邪魔しました。

痛い痛いと悶えておられ、痛み止めの座薬を入れさせて頂き、おさづけを取り次ぎました。
痛みが治まらないので、ご本人が掛かりつけの病院にお電話され、その日の午後から入院されることになりました。
その後も、何度か電話での連絡は取っていたのですが、四月の後半からは連絡が取れなくなりました。
五月一日の月次祭で大阪に戻らせて頂いたのを機会に、五月二日、入院されていた病院に直接行ってみました。
御出直しされたことは教えて貰えましたが、親族関係ではないことから、いつどの様にして出直されて行ったのか、それ以上のことは教えて頂けませんでした。

余談になりますが、この方から言われた最後の言葉は、私のことを「先生」と呼んで下さっていたんですが、「先生恨んで死んでやる」という言葉でした。
自分のツラさをなかなか人に言えない人が、それだけ、私に心を開いてくださっている。強い表現の言葉ではありますが、その内にある、私を思いきり頼って下さる心を受け取らせて頂いた日々でした。

私はこれまでにも、おたすけで関わらせて頂いた方のほとんどが、出直されて行っています。
その御一人お一人に、今度生まれ変わって来られるまでに、少しでもこの世界を陽気ぐらしの世界に変えておいて、喜んで生まれ、生きて行って貰いたいと願っています。
御出直しが増える度に、その想いは強くなっています。
御一人お一人の来世までの時間を、この背中に背負っているような気持ちです。

ですが一方で、これは自分一人でできることではないなぁと、最近つくづく感じます。
私に残された時間と、私の体力や能力と、私の陽気ぐらしを希求する気持ちと、その道のりとが、あまりにも遠い。
けれども同時に、一人では無理でも、同じ気持ち、同じ願いで通って下さる方が増えれば、たとえ一秒でも、その時間は短くなるかもしれない、いや、間違いなく短くなると思います。

私の私利私欲の願いです。
御出直しされて行った方々が、今度生まれ変わって来られるまでに、少しでもこの世界を陽気ぐらしの世界に変えておいて、喜んで生まれ、生きて行って貰いたい。
気持ちだけで結構ですので、同じ気持ちで通って下さる方に増えて行って貰えたらと願っています。

具体的には、おさづけを拝戴されて居ない方は、まず別席を運び、おさづけを拝戴する。おさづけを拝戴されている方は、御家族など身近な人からで構いませんから、おさづけを取り次ぐ。それができているという方は、勇気を以てその輪を拡げていく。その勇気を養う為に、修養科や講習を受講する。そして何より、そのおたすけが少しでもうまく運ぶよう、また直接のおたすけ相手が居なくても、世界のたすかりを願っておつとめをつとめる。その為にも、別席を運び、修養科や講習を受講する。そんな積み重ね、繰り返しが必要かと思います。

おさしづに
難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。(中略)ひながたの道より道が無いで。
とお教え下さいます。
(明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話)
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/417874635.html

ちょうど、教祖140年祭活動の真ん中です。
改めて、教祖ひながたの道を学び直し、軌道修正しながら、引き続き歩ませて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治二十二年のおさしづ。(公刊おさしづ第一巻より)その2 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/417874635.html

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2024年09月01日

立教187年・九月月次祭神殿講話

立教187年・九月月次祭神殿講話








ただいまは、当教会の九月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

夏休み明けの日曜日でございますので、お子様のお好きな、アニメを台に御話させて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

この夏休み中に、次女が、「ノラガミ」というアニメに夢中になっていました。

天理教の神様とは違いますが、日本文化の、八百万の神様をモチーフに、社のない、つまり、神様にとっての家の無い、野良の神様、夜トという、おそらく荒神、祟り神である、「やとのかみ」をモチーフに作られた神様が、妖退治をすることで、社を建てられるように妖退治、人だすけをしていく、というバトル漫画です。
菅原道真や毘沙門天などの名前のキャラクターも登場しますが、あくまでモチーフで、これを見たからと言って、さして日本文化のお勉強にはなりません。
むしろ、主人公の夜トも、黒いジャージを着た、今もその辺を歩いていそうな若者の姿をして、過去の過ちを嘆いたり、人から忘れられてしまうと神としての存在が消えてしまうという設定に悩んだり、さらには、美味しいものに目がないという、非常に人間臭い、神様というよりは、現代っ子を表現したキャラクターです。

さて、そんなアニメなんですが、夜トは、人だすけにお金を取ります。
金額は、5円。お賽銭といえば、5円という発想からです。

アニメの設定としては、面白いですよね。

娘も面白がって、5円が欲しい5円ちょうだいと言ってきます。

アニメの設定としては面白いのですが、私は子ども達に、伝えておきたいことがあります。

御供え、お賽銭というのは、ご利益や願いを叶えてもらうためにするものではなく、「次の人」の為にするものなんだと。

願って、ご利益が頂ける、たすけて貰える、あるいはどうなろうとも、祈れる場所がある、癒される場所がある。その感謝・喜びがあるならば、次に参拝する人、次に願い出てくる人、次に手を合わせに来る人の為に、その神様の存在、神様が奉られている社の維持・発展の為に、お金を納めることが、御供え、お賽銭の意味なのだと。

もちろん、人それぞれに、経済状況は違います。
しかし金額の問題では無いんです。
次の人の為にと思って御供えしているのか、それとも我が願いのためだけなのか。さらに、金銭的に難しいなら、その社周辺を掃除したり、またその利益を人に伝えて、その神様の存在が忘れられ、消えてしまうことが無いようにするのも、お賽銭と同様に意義があります。さらに言えば、人に伝えることを主としてつとめる人の支えになろうとすることも、同様の意義があります。

次の人。

自分より後に、参拝する人。

こう言うと、自分の子孫をイメージされる方もあるかも知れません。

最近知った、日本語の誤用、間違った言葉づかいで、ちょっとショックを受けた表現があります。

「末代男子」「末代女子」という表現です。
私の世代は、異性からモテない人のことを「非モテ」と言いました。
「末代男子・女子」も発想はモテないというところにあるんですが、遺伝子的な意味で、子孫を残せない、自分が最後の代だ。という発想でこの言葉が使われています。
ここ1年ほどで、急速に広まっています。

元来の「末代」という言葉は、辞書的には、「死んでから後の世。後世」という意味ですから、遺伝子や「家」としての繋がりは関係ありません。
ですが私は、それが日本語として間違った表現だと単純に切り捨てる気にはなれません。「末代男子・女子」という表現には、単純にモテるモテないという次元とは比較にならないほどの切実さを感じてしまいます。
それこそ、ノラガミの中で夜トが人間に忘れられたら、その存在が消えてしまう、その苦しみとリンクするような切実さを思ってしまいます。

天理教のこの道は、「末代の道」「末代の理」とお教え下さいますが、その中にあってさえ、自分には子が無いから、子孫がいないから、などという人もあります。もっと言えば、自分を末代にすれば、因縁は無くなると、非常に間違ったお考えの方すらあります。
遺伝子的、「家」という意味での子孫ではなくとも、後に繋がる人をつくり、後に繋がる人の為に尽くすことが大切です。

世間ではよく、人が死んでも教えは残ると言いますが、それは間違いです。
花の種を胸に秘めていては、花が咲かないように、教えの理も、種を蒔き、水や肥料を与えて初めて、後々に残って行くんです。

それは単純に、会ったことのない、この目で見ることのない、自分とは何の関係もない後々の世の人の為になるばかりはでありません。
自分がお世話になった方が生まれ変わって来たとき、迷うことなく、この道に繋がり、前生から更なる成人の歩みを進めて貰うことにもなります。さらには、自分自身がこの世に帰って来た時も、同様です。
人のためであり、先に出直していった方々への孝行であり、そして、自分自身のためになるんです。

祭文でも奏上しましたが、今月は全教会布教推進月間です。
布教実働の中に、次の人の為、という意識を以て、共々につとめさせて頂きたいと存じます。

最後に、おさしづを引用させて頂きます。
心を尽した理は末代とも言う。この一つの理急ぐで。早く楽しましてくれ。この道、この道あればこそ/\。尽した運んだ理は、皆受け取ってあるという事楽しましてくれ。早く急いでくれ/\。(明治三十四年四月二十八日)
(おさしづ補遺(明治三十四年)(公刊おさしづ第七巻より) https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/432182359.html


ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: おさしづ補遺(明治三十四年)(公刊おさしづ第七巻より) https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/432182359.html

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2024年08月02日

立教187年・八月月次祭神殿講話

立教187年・八月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の八月の月次祭を、酷暑の中、勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

本日は、「八つのほこり」について、お伝えさせて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。よろしくお願い致します

柏手

まず、お配りしておりますリーフレット、すでにお持ちの方もいらっしゃると思いますが、本日は、このままお持ち帰り頂いて構いません。
ただ、お配りしたものは簡易版でして、もう少しサイズの大きい、B4サイズのリーフレットには、八つのほこりの説き分けの前に、解説文が入っています。まず、その解説文をご紹介します。

人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りに御守護下さいます。 親神様の思召に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と仰せられます。ささいな「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分な御守護を頂けなくなります。そこで親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除に努めるとともに、人には「ほこり」を積まさぬよう心を配らねばなりません。 ほこりの心遣いを掃除する手掛かりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」という「八つのほこり」をお教え頂いています。

身の回り一切は、心通りの世界という訳です。
なかなか厳しいお言葉ですが、何より大切なのは、この矢印を人には向けないということです。
どこまでも、自分自身にだけ向ける。
人を責め立てる道具には、決してしないようにご注意下さい。

みかぐらうたに
なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに(十下り目-7)
とありますように、自分の心を省みることが、すべての立脚点です。

先日、布教の家の寮生さん達と、八つのほこりについて練り合いをしました。
その中で、「うらみ」という埃は、二通りあると教えてくれた方がありました。
一つは、人を恨む文字通りの埃、もう一つは、自分自身を必要以上に責める、行き過ぎた我が身恨みの埃だと仰っていました。

そこで私は彼に、もう一段踏み込んで、
「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに」という「みかぐらうた」の言葉は、同じ恨みという言葉でも、「反省」の意味だと思う。では、その「反省」と、行き過ぎた我が身恨みとの境目は、どこだろうか?
と訊ねてみました。
すると彼は、
反省は、本来、前向きになれるハズだ。
でも、行き過ぎた我が身恨みは、自分を責めることが目的のようになってしまっている。
と答えてくれました。

私の中で、かなり衝撃的なやり取りでした。
というのも、私自身、自分を責めるのが、まぁ言ってしまえば、大好きな人間なんです。
常に自分を責めてしまう。
しかも、そこには何の生産性もなく、ただただ落ち込んでいくばかりの心遣い。

なるほど、「わがみうらみであるほどに」という表面的な教えは理解していても、それが故に、陽気ぐらしの心遣いとは真逆に、自分を責めることに溺れている自分に、気づいてはいましたが、それが埃の心遣いで、しかも、正しい反省は、前向きになれるものだと教えて貰い、ものすごく腑に落ちました。

私よりも15歳も年下の方ですが、共に育つ想いで接していると、本当に、こちらが育てて頂いているんだなぁと思います。

またもう一つ、教養掛中に教えて頂いたことです。
一期下の教養掛のM先生は、天理教校第二専修科という学校のご出身でした。第二専修科の布教合宿の際に、三代真柱様がお話をしに来てくださったそうです。その中で、
若いうちは特に、欲がある。色んな欲がある。それはなかなか無くせない。
けれども、その欲というものを、今はとりあえず、横に置いておけ。
と御仕込み下さったとのことでした。
M先生はその時、2つの意味で、楽になったそうです。
欲の心は、三代真柱様ですら、なかなか無くせるものではないということ、そして、それを無くそうと苦しむのではなく、とりあえず、横に置いておけば良いんだということ、とても安心したとのことでした。

本日は、八つのほこりの一つ一つを事細かに解説することはしませんでしたが、何より大切なのは、最初に申しましたように、どこまでも、自分自身にだけ向ける。人を責め立てる道具には、決してしないということです。
そして、説き分けそのものは、大変厳しく、自分を振り返れば、反省するところしか無いような内容になっていますが、それでも、やはり前向きに明るい気持ちになるためのよすがであるということです。

教典に、
人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
とお教え下さいます。

人も自分も責めず、ただただ毎日毎日、身体が勝手に、新陳代謝、飲み食い出入りで不必要なものを排泄して、体内をキレイに守ろうとしてくれているように、自分の心も、反省することで前向きに過ごせることが、この道を歩む者の歩み方なのだと、悟らせて頂きます。

親神様はどこまでも、私達に、陽気ぐらしをさせてやりたいと思召されていて、決して苦しめようとはされていませんからね。

月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから(おふでさき第十四号-25)

ご清聴ありがとうございました。

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 天理教教典・第七章 かしもの・かりもの https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/450836691.html
天理教勉強blog: 天理教教典・第八章 道すがら https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/450856894.html
天理教勉強blog: みかぐらうた解釈14 十下り目。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/127581585.html
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝「第五章 たすけづとめ」 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/401835339.html
天理教勉強blog: おふでさき第十四号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/395907927.html

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2024年07月01日

立教187年・七月月次祭神殿講話

立教187年・七月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の七月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。
三か月間の修養科教養掛をつとめ終えさせて頂きました。
これを台に、ひと言お伝えさせて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

三月二十六日に、初めて担当の修養科生さんと出会った時、これからの生活が不安でポロポロ泣く姿に思わず、「私は、あなたの親代わりです」と伝えました。思わず口から出たその考え方が正しかったのかどうか、自分自身、自信がありませんでしたが、後日、詰所の主任先生から「教養掛は、三ヵ月限定の理の親や」という御言葉を聴き、自分の考え方は間違っていなかったと思えました。
しかし、三ヵ月を振り返ると、私が親代わりとしてできたことはほとんどなく、できたことというのは、たった二つしか思い当たりません。

送迎で毎日、苦手な運転をしたこと。もう一つは、毎朝、修養科生さんを起したこと。
この二つだけです。

それ以外は、どうして良いか解らずにオロオロしていたり、また、教会の信者さんが相次いで出直され、気持ちの整理がつかないまま教養掛の生活を過ごして、ツラい気持ちになってしまったり、という日々でした。
他の教養掛の先生方、詰所の先生方、また、修養科生さんのたすけを借りて、ようやく通れた三ヵ月でした。

そうした中で、私の心を救ってくれたのは、二つのことです。

一つは、私自身が修養科生さんに掛け続けた、「居るだけで良いよ。修養科に行って、授業の内容が何にも解らなくても良い。ただ教室に座ってる。それだけで良いよ」という言葉です。ツラい時、自分のこの言葉が、自分に返って来ました。何もできなくても、ただ、この場に居続けよう、そう思えました。

もう一つは、河原町大教会初代会長・深谷源次郎先生の教えです。
人を育てるのは、親が子どもの草履をそろえてやるようなものや、という趣旨の御話です。
現代風に置き換えれば、草履を揃えるというのは、送迎の運転をしたり、朝、起したりするようなことなのかなと思えました。

そういう意味では、形としては一応、親代わりをつとめさせて頂けているのかなと思えました。
しかしその心の中は、親の立場として、時に優しく、時に厳しく、けれども、その大半は、どうして良いか解らずに、オロオロオロオロしながら接している。
そんな毎日しか通れないし、そんな毎日の中で、いつの間にか、接する修養科生の心は成人している。だから、そんな毎日、そんな親で良いんだと思えました。

自分自身の子育てを考えてみても、まったく同じです。

草履を揃えてあげるような、小さなことを繰り返しながら、時に優しく、時に厳しく、そしてその心の大半は、どうして良いか解らずに、オロオロしている。
そういう中で、私がいつの間にか成長し、その分以上に、子ども達が成長している。

子育てをはじめ、教えを伝えるというのは、そういうものなんだと学ばせて頂きました。

貴重な貴重な三ヵ月を過ごさせて頂くことができました。

おさしづに
育て合い/\、一つの理育てば皆育つ。(中略)こちら遅れば手伝う、あちら遅れば手伝う、これ誠の理なら受け取る。(中略)順を定め。あちら遅れたら手伝う、こちら遅れたら手伝う。これ先々諭してくれにゃならんで。互い/\という理こゝにあるのやで。
(明治二十四年九月十六日 高知分教会設置の願)
天理教勉強blog: 明治二十四年のおさしづ。(公刊おさしづ第二巻より)その3 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/420303133.html

とお教え下さいます。
教祖140年祭活動も後半となった折、自分自身を育て、人を育てる毎日を、小さなことから、コツコツコツコツを積み重ねさせて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治二十四年のおさしづ。(公刊おさしづ第二巻より)その3 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/420303133.html
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2024年02月01日

立教187年・二月月次祭神殿講話

立教187年・二月月次祭神殿講話








ただいまは、当教会の二月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

私事ですが、先月、一月十九日に、伯母が出直しました。
これを台に、ひと言お伝えさせて頂きたいと思います。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

伯母は、私の父のお姉さんに当たりますが、長らく認知症を患っておられまして、また、ここからは遠方にお住まいでしたので、最晩年は、ほとんどお会いできていません。
そうは言っても、やはりお世話にもなりましたので、このお出直しから、色々と取り留めも無く、思案して居りました。

で、ふと思い出したのが、「魂は生き通り」ということについて、教祖伝にも逸話篇にも載っていない、教祖のお言葉です。
少し余談になりますが、教祖伝や逸話篇というのは、かなり厳しくその出典の根拠を精査されています。
100%間違いなく、教祖が仰ったこと、史実だけが収録されています。
99%の信憑性のものは載っていません。
これからご紹介するお話は、99%の信頼性のものです。
桝井孝四郎という、おさしづの編纂に携われた先生が、自分のお兄さん、村田慶蔵先生の出生について語られたものです。
このエピソードを根拠に、慶蔵先生は桝井家から村田家に移って居られますし、桝井家も村田家も、立教後、かなり初期から信仰されていたご家庭で、その御子孫は今も御本部でつとめられています。ですので、どう読み解いても、教祖のお言葉として信憑性はかなり高いのですが、恐らく、一言一句を文字化して書き残されていなかったからでしょう、教祖伝にも逸話篇にも収録されなかったお話です。
この点を先にお伝えしておいて、具体的な内容をご紹介したいと思います。

「おさしづ語り草」(桝井 孝四郎 (著))
https://amzn.to/3u9AOz9

村田幸右衛門という、文久、元治のころから信仰されている先生があった。
自ら掃き掃除をしたり、風呂の焚き番をしたり、下々の事ばかりなさっている。また、大変声のいい方で、皆から「理のある先生」だと、尊敬されている方が居ました。
ところが幸右衛門先生が晩年になって、三才の子どもでもしないというような仕草をされる。まるで魂の抜けたようなことをなさる。
具体的には、「自分のひったもの」つまり、自分の便、排泄物ですね、これを掴むというようなことをされる。
そこで、教祖にお伺いされました。
ちょうどその時、桝井孝四郎先生のお母様、桝井おさめ先生が、妊娠中でお腹が痛くなったので、おやしきに居られた。
教祖は、
「魂は先方へ宿っておるがな」
と仰せになり、おさめ先生のお腹を撫でて
「魂は生き通りやで、これ生き通りのひながたや。ひながたには二つはないのやで」と仰った。
先方に宿っている魂とは、どこに宿っているかというと、桝井おさめ先生のお腹の中に宿っている。ここに村田幸右衛門先生の形は残っているが、魂はこちらに宿っていると。
で、お生まれになった慶蔵先生は、村田幸右衛門先生の生まれ変わりであるからということで、三才の時から、桝井家から移って村田家の子になった。
こういう御話です。

村田幸右衛門先生は、明治19年(1886)10月21日、66才で出直されています。明治19年10月ですから、教祖が現身をお隠しになる、明治二十年陰暦正月二十六日の、ほんの数か月前のお出直しですね。

66歳というと、今の感覚では、かなりお若いと感じます。
その魂の抜けたようなご様子というのが、今で言う認知症の症状、しかもそのかなり重症な様子に当てはまるなぁと感じます。
現在は、認知症はかなり身近な病気ですし、今ではほとんどの方が、多かれ少なかれ、最晩年にはその症状を見せて出直して行かれます。
少しずつ少しずつ、魂が移ろって行っているのかも知れません。

認知症を患っていた伯母の魂は、もう既に誰かのお腹の中にあるのか、それとも神様の懐にあるのかは解りませんが、きっと身近などこかに、生まれ変わって来られるのだと信じます。

さて、生きながらにしての出直しとか、魂の移ろいというのは、出直しの前向きな意味とも捉えられる一方で、認知症などの、加齢による病気に対して、極度に不安を覚える方もあるかと思います。

ですが私は、人の衰えには、二つの大きな意味があると思っています。

一つは、人はいつか必ず衰え、誰かの世話になる必要があると、子や孫に、その姿で伝える事。
もう一つは、そうして子や孫と接する時に、こういう年の取り方なら、悪く無いな、この人なら、積極的にお世話したいなと、そうしたモデルケース、お手本を示せることです。

私の父も、最晩年は脳内出血で、自分の名前を言う事もできず、身体も動かせない状態でしたが、子や孫の顔は憶えていました。
その姿を、子ども達が見ていた、それだけで、大きな意義があると思いますし、子ども達の心の成長に繋がったこと、父に、とても感謝しています。

またもう一人、今も御存命の大教会の役員婦人の先生ですが、105歳になられたかと思います。
この先生が、100歳になられた時、大教会の祭典後に挨拶をされました。
私は、その時の言葉が忘れられないんです。

「100年という時間の中には、雨の日も風の日も、それこそ嵐のような日もありましたが、一度も『イヤだ』と思ったことはありません」
と。
このお言葉を聴いた日、私は朝起きてから、大教会のおつとめを参拝するという僅か5〜6時間の間に、何度「イヤだ!」と思ったことか。

後から知ったことですが、この先生は、結婚当初に満州へ行き、現地で布教に励みながらも、終戦後は幼子を連れて命からがら日本に引き揚げて来たような方です。
私は、恵まれた環境の中で不平不満に溺れている自分が、恥ずかしくてたまりませんでした。
そして、車椅子生活で、人のお世話になる必要があっても、こういう年の取り方をしたいなぁと、お手本をお見せ頂けたように思います。

取り留めも無い話を続けてしまいました。

最後に、伯母と私の最後の会話らしい会話の記憶をご紹介したいと思います。
もう、十年以上前になります。
私の従妹の結婚披露宴でのことです。

伯母と、私の父や母、私達夫婦は一緒のテーブルでした。
父が、入れ歯を外そうとしてうまくいかず、私が外すのを手伝いました。
その姿を見ながら伯母は、私の妻に、
「有難うねぇ。こんな弟でごめんねぇ。お世話になるねぇ。よろしくねぇ。」
と言いました。

いくつになっても弟を思いやる、姉の姿がありました。

出直すことも、老い衰えることも、その姿を以って、後世に生きる喜び、陽気ぐらしの輪を伝えられるなら、何も怖い事はありません。

明治三十四年九月二十三日
 政田甚五郎五十二才身上願
人間という、たゞ一代切りと思たら、頼り無い。人間一代切りとは必ず思うな。そこで一つ理がある。皆生まれ更わり、出更わりという理聞き分け。親が子となり子が親となり、どんな事もほんになあ、よく似いたるか/\。この一つ性(しょう)ありて現わしたる。この理聞き分けて楽しめ。こんな事ぐらいとしいかり定め。とても/\及んでからはどうもならん。日々不自由と思わず、心改め、しいかり踏ん張れ。しいかり踏ん張れば、未だ/\長いで、未だ/\長いで。
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/432182359.html

ご清聴ありがとうございました。

柏手

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2024年01月04日

立教187年・春季大祭神殿講話

立教187年・春季大祭神殿講話








ただいまは、当教会の春の大祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

教祖140年祭活動の二年目に入りました。
年祭活動について、改めて御話させて頂きたいと存じます。しばらくお付き合い下さい。

柏手

まず、本年の私の書初めです。
「拇」
ねえ。
なんのこっちゃ解らんでしょう。
書初めで、親指ってなんやねんと。
天理教の言葉でも無ければ、世間一般の名言とかでもなく、身体の極一部位。
訳わかんないですよね。

これから説明させて頂きたいと思います。

もう五年以上前になります。
「ユマニチュード入門」という本を読みました。
介護の現場での「人間らしいケア」についての本です。介護される人と介護する人、両者がお互いに気持ちよく、人間らしく存在するためには、「愛情」という心だけでなく、相手に伝えるための「技術」が鍵になるのだと言う本です。介護現場の中でも特に、認知症の方の介護での、技術的な心得について書かれていました。
ちなみに、ユマニチュード(Humanitude)とは、フランス語で「人間らしさを取り戻す」という意味だそうです。

この本の中に、
「親指を手のひらにつけて、絶対に使わない」と強く意識することが必要になる
という一節がありまして、私はこの一文に釘付けになりました。
その理由は後で言います。
先ずは、なぜ親指を使わないように気を付けなればならないと書かれていたのかを説明しておきます。

「見る」「話す」と同様に、「触れる」ことにもポジティブな触れ方とネガティブな触れ方があります。
ポジティブな触れ方には、「優しさ」「喜び」「慈愛」、そして「信頼」が込められています。動作としては「広く」「柔らかく」「ゆっくり」「なでるように」「包み込むように」という触れ方です。これらはみな、ケアを受ける人に優しさを伝える技術です。
「触れる」という行為はすべて意味をともないます。認知機能が低下して状況を理解できない人にとって、「つかまれる」ことがどういう意味をもつかを考えてみましょう。
わたしたちは日常生活において、相手の手首や足をいきなりつかんだりしません。日常生活で誰かに手首をつかまれるとすれば、それは「どこかに連行される」というような非常にネガティブな状況でしょう。しかしケアを行う際には、何の違和感もなく、相手の手首や足をつかんでいることがあります。
ケアを行うにあたって、このようなネガティブなメッセージを送らないためには相手をつかまないことが大切です。そうはいっても、ついつかんでしまいがちなので、日ごろのケアにおいては「親指を手のひらにつけて、絶対に使わない」と強く意識することが必要になってきます。

広い面積で、ゆっくりと、優しく触れる。これこそがユマニチュードで用いる触れ方
その為に、「親指を手のひらにつけて、絶対に使わない」ということでした。

なるほどぉ!と思いますよね。

さて、ではナゼ私は、「親指を手のひらにつけて、絶対に使わない」という一説に釘付けになったのか。
単に、この技法に感動したからではありません。

おてふりで大切なのも、「親指を手のひらにピッタリ付けること」と教えられているからです。
天理教で最も大切なのは、おつとめです。
教祖は、明治二十年陰暦正月二十六日、子どもの成人を急き込まれて現身を隠されましたが、その最重要な成人とは、おつとめをつとめることです。
そして初代真柱様を中心に、命捨ててもという心でおつとめをつとめられました。
おつとめを急き込まれる教祖も、つとめる方々も、皆、命がけです。
それほど大切なおつとめ。その中でも、最も大切なのは、おてふりです。
そのおてふりの中で最も大切なのが、親指を手のひらにピッタリ付け、五本の指を全て揃えることなんです。

おさづけも同じです。
「あしきはらい」の手振りをして、患部を優しく撫でるんです。
「親指を手のひらにピッタリ付けて」、優しく、教祖の代わり、親の代わりに、我が子を慈しむように、広い面積で、ゆっくりと、優しく触れる。

この五年間、私は、このユマニチュードと、おつとめの手振りの共通点を意識してきました。
そして、ふと思ったんです。

人間の手は、親指と他の指が向かい合うことで物を掴み、加工して生き抜いて来た。
でもその親指を、あえて掌の横にピッタリくっつけることで、優しく撫でられる。
これからの人間の手の変化、心身の進化は、そこから始まるんじゃないかと。

おつとめ、お手ふりとは、その為のものであり、進化と同時に、「人間らしさを取り戻す」行いでもあるのでは無いだろうかと。

繰り返しになりますが、教祖は現身をかけておつとめをお急き込み下さいました。先人は、命捨ててもという想いで、おつとめをつとめられました。
それが、教祖年祭の、元一日なんです。
おつとめも、おさづけも、教祖の代わりにつとめるんです。
これを考えた時、私にとって、先ずしなければならないことは、「親指を手のひらにピッタリ付ける」ことだと思い、この書き初めにした次第です。
何より、拇という字には、「母」つまり教祖の存在が込められている気がしますから。

おつとめでも、おさづけでも、日常、人と接する時でも、「広く」「柔らかく」「ゆっくり」「なでるように」「包み込むように」、手を使っていきたいと思います。

月日にハせかいぢううハみなわが子
かハいいゝばいこれが一ちよ(17-16)
(天理教勉強blog: おふでさき第十七号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/396565856.html

ご清聴ありがとうございました。

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝「第十章 扉ひらいて」 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/411484279.html
天理教勉強blog: おふでさき第十七号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/396565856.html

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2023年12月01日

立教186年・十二月月次祭神殿講話

立教186年・十二月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の本年納めの月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。
本年も、残すところ一か月となりました。
一年を振り返りますと、世界では、ウクライナでの戦争が長引き、更にパレスチナ問題を巡り、イスラエル・ハマス戦争が始まりました。第三次世界大戦に繋がりかねない緊張状態が続いています。一方国内に目を向けますと、空前の円安が起こり、生活を圧迫しています。そんな中で、当教会では、青年会の委員長を交代させて頂き、先月、青年会総会に新旧の委員長で参加致しました。世界の状況に比べて、申し訳ないほどに、非常に穏やかに有難い姿をお見せ頂いております。

戦争、円安、青年会総会、これらを台に、陽気ぐらし世界について御話させて頂きます。しばらくお付き合い下さい。

柏手

円安円安と言われて居ります。まず、円の話からしたいと思います。
円と言っても、お金の話ではなく、丸のことです。
先日の青年会総会の際、新しい委員長さんも、私とよく似て、非常にシャイです。初対面に等しい青年会員の輪の中に入れない。
そこで彼に、円の不思議な性質について話しました。

円の円周を半分に切って、二つの円を作ると、その面積は、それぞれ、元の円の四分の一になる。つまり、円周の長さの合計は変わらないのに、面積の合計は半分になってしまう。
これを繰り返して行くと、円周の長さは一定なのに、面積の合計は、限りなくゼロに近づいて行く。

これね、逆も言えるんです。

解りやすく、私が腕で円を作ってみます。
この円の面積、誰かもう一人の人と手を繋いで二人で輪を作ると、面積は、私が一人で作った時の、二倍ではなく、四倍になるんです。
三人で作れば、9倍、四人で作れば16倍、十人で作れば100倍になります。
難しい言葉で言うと、指数関数。物凄い勢いで、面積は広がっていきます。

これは、土地や物だって同じハズなんです。
お道の言葉ではありませんが、昔からよく言いますよね。

「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」

先日、子どもが唐突に
「パパは、ハマスとイスラエル、どっちが悪いと思う?」
と尋ねて来ました。
私の答えは、
どっちも悪い。パパも悪い。お前も悪い。

子どもは、
何で私が悪いの!?
と言ってきましたが、

だって、いつも御菓子取り合って、泣いてるやないか。
御菓子取り合って怒るのと、土地を取り合って戦争するのは、地続き。
自分が物を独り占めしたいと思う心があるなら、戦争の原因は自分にもある。だから、パパはめっちゃ悪い。

と答えました。

天理時報特別号で、イラストと詩を掲載されていた「にしむらえいじ」さんの詩に、

「二人で分けると、大きさは半分になるけど、
美味しさは、二倍になるんだよ」

とあります。
食べ物は、半分に分けると、美味しさが二倍になる。
土地は、二人でシェアすると四倍になり、人数が増えれば、指数関数で増えていきます。

今日ご参拝の皆様は、皆、大人ですから、食べ物を取り合って泣くようなことは無いと思います。
でも、子どもの頃は、少なからず、取り合ってきょうだいげんかをしたと思います。
それは、心が成人した証拠です。
しかしながら、何かを独り占めしようとする気持ちや、「守る」という名目で、排他的に考える気持ちは、やはりあると思います。
私はあります。無くそう無くそうと思っても、そう易々と無くなるものではありません。

まずは、そんな自分のズルさを、自覚したいと思います。
そして少なくとも知識で、分ければ美味しさは二倍、シェアすれば面積は四倍と知ってはいるのですから、その輪を広げて行くような言動を心がけていきたいなと思います。

教えの深みというのも、同じだと思うんです。
一人で考えること、学ぶことも大変すばらしいことです。
しかし、人と分かち合い、学び合えば、その味わいは、二倍にも四倍にも百倍にもなっていく。
にをいがけ、布教というと、人に教えを伝えなければならないとか、天理教に改宗して貰わなければならないとか、そんな風に感じてしまうかも知れません。
しかし、シェアすることによって、自分一人で味わっていた教えを、別の角度から深めて貰うものだと考えれば、肩肘張る必要は何もありません。
私も、大変人見知りの激しい、シャイな性格ですから、人の輪に入る、自分の輪を広げるというのは、とても勇気が要ります。
ですが、それがほんの僅かでも拡がった時の喜びというのは、その勇気を差し引いて余りある収穫があります。

そうして人は、成人を積み重ねることができるのだと実感しています。

教祖年祭、年祭活動の旬は、教祖の道具衆として、にをいがけ・おたすけを通して成人する旬です。
肩肘張らず、この教えをシェアしていく。それだけで、私たちは、成人できます。
その積み重ねの先に、今現在、どんなに苦難溢れる世界の情勢であっても、いつか必ず、世界中の人間が仲良く陽気にたすけ合って暮らす、陽気ぐらしの世界が実現します。
その種を、自分一人で独り占めしていることが、この世界が陽気ぐらしの世界でない、最たる原因です。

肩肘張らずに、日々、教えをシェアしていきましょう。

おさしづに
この道は心次第の道。一条の道を万筋に通るは皆心という一つの理から出る。互い/\話し合うた、結び合うた事もある。それはよう/\の日、よう/\の心、日を取り違えしたようなもの。日と心とこの理を聞き分け。成ってから言うた処が取り返やしはならん。よう/\にをいある間に結んでくれ。にをい褪めてからはどうもならん。皆千切れ千切れである。千切れ/\になりてからは、容易な事では繋がれん。(明治三十年二月一日
 松村吉太郎風邪引き咳出て困り居る後へ、小人義孝口中舌たゞれ、口中悪しくに付願)
天理教勉強blog: 明治三十年のおさしづ(公刊おさしづ第四巻より)その1 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/427936705.html

とお教え下さいます。
この旬に、自分の手を、他の人と繋いで、陽気ぐらしの輪を、四倍にも、百倍にも、拡げて行きましょう。
ご清聴ありがとうございました。
柏手

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2023年11月03日

立教186年・秋季大祭神殿講話

立教186年・秋季大祭神殿講話








ただいまは、当教会の秋の大祭を賑やかにつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

祭文でも奏上致しました通り、本日は、当教会の94回目の誕生日に当ります。また、教祖140年祭へ向かう三年千日の成人の旬、真っ只中でもあります。

神殿講話に先立ちまして、先ず初めに、改めて、諭達第四号を拝読させて頂きます。

柏手
諭達第四号拝読
柏手

ただいま拝読させて頂きました諭達第四号を踏まえまして、心の成人について、ひと言お伝えしたいと存じます。しばらくお付き合い下さい。

柏手

教会では、毎朝、朝づとめ後に諭達を拝読させて頂いております。
読むたびに、印象に残る箇所が、少しずつ変化して行くんですが、最近は、

「今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張や刹那的行動があふれ、人々は己が力を過信し、我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。」

という箇所に、特によく、目が留まります。

文章としては、世の中のこと、世間の状態を指している表現なんですが、私は、私自身のことを言われているなぁと思います。

他者への思いやりを欠いた自己主張、刹那的行動、己が力を過信していること、我が身思案、この全てが、私の心に鋭く刺さって来ます。

陽気ぐらし世界が実現する為には、他の誰でもなく、まず自分自身が、こうした心遣いを無くして行くことが必要不可欠な訳です。
その為の行動について諭達には、

「人救けたら我が身救かる」と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていくとお教え下された。

とお示し下さいます。
おたすけを通して感じることは、おたすけは、自分の力でできるものではなく、どこまでも、神様の御守護によって人はたすかって行くということです。
しかし、おたすけを重ねる中に、経験や知識が増え、自分の力で、たすけようとしてしまいがちになります。そしてたすかって貰えない現実を繰り返し、なんでやなんでや、こんなに頑張ってるのに、と自分自身の心が苦しくなっていきます。
まさに、己が力を過信し、我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。そんな自分自身の心を反省する今日この頃です。

大切なのは、おたすけとは、自分が人をたすけるということではなく、悩んでいる人と、神様を「繋ぐ」ことだと思います。

簡単で、当たり前なようでいて、それが一番難しかったりします。
年祭活動は、おたすけの旬、種蒔きの旬と言われますが、それを通して、自分自身が成人させて頂く、自分自身を丹誠していくことで、おたすけの芽が吹き、世の中全体が陽気ぐらし世界に近づいて行く、そして後世にも教えが伝わっていくのだと思います。

繰り返しになりますが、簡単で、当たり前なようでいて、自分自身の丹誠が一番難しい。
先月、十月二十六日の御本部秋季大祭後の真柱様の御言葉に、「教祖は五十年もの間、どんなことが起こっても諦めること無く丹精し続けられたということを、これもひながたとして、忘れてはならないことなのではないかと思う」と御話下さいました。
人にたすかって貰いたい、人と神様を繋がして貰いたい、そういう心を諦めずに働かせていく中に、自分自身の心が、いつしか澄み、明るく陽気に救われていくのだと、思います。

年祭活動は、種蒔きの旬です。
私自身も、ささやかながら、毎日の路傍講演とゴミ拾いを心定めとして続けさせて頂いております。
まずは、おたすけ、教えを知らない方に、一言でも伝えさせて頂く。
どんな種を蒔くかを悩むより、まず、どんな簡単な事でも良いから、一粒でも多く種を蒔く。
それこそが、今は何より大切なのでは無いでしょうか。

おさしづに
旬々という、旬に治まれば末代、と諭し置こう。神一条に濁り曇り更に無い/\。なれど、取りよう伝えようによりて曇りが始まる。曇りては神の道とは言わん。よう聞き分けてくれ。道というは、どれから教えに来たのやあろまいし、元々始め掛け事情より聞き分けてくれ。神一条の理は真っ直ぐなもの。真っ直ぐなればこそ今日の道と言う。一つ治まれば末代の事情、これ聞き分け。
(明治二十八年五月十九日 午後七時半 政甚東の方本席御宅にて住居の事情願)
天理教勉強blog: 明治二十八年のおさしづ(公刊おさしづ第三巻より)その2 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/425265947.html

とお教え下さいます。
年祭活動の旬、当教会の創立百周年に向かう道。
次の代、次の代にたすきを繋いで行く為にも、今、自分にできる種蒔きを通して、自分自身の心の丹誠を、共々に進めさせて頂きたいと存じます。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治二十八年のおさしづ(公刊おさしづ第三巻より)その2 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/425265947.html
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2023年10月01日

立教186年・十月月次祭神殿講話

立教186年・十月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の十月の月次祭、並びに、秋の霊祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

まず、ご報告です。
来年の4月から6月の三か月間、修養科の教養掛をつとめることになりました。
この機会に、修養科を志願して頂けたらと思いますので、それにちなんだ御話をさせて頂きたいと思います。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

修養科というのは、おぢばにて、三か月間の心の修養を行うところです。
やることは、教室で授業を受けたり、おつとめ練習をしたり、また、神殿掃除をはじめ、おぢば周辺や詰所でのひのきしんです。
イメージとしては、学校のようなものです。

私は、誰もが、人生で一度は行くべき、人生の学校だと思っています。

年齢は立場は、本当に様々です。
一番若い方は、17歳、上は車いすの高齢の方まで。
事情があって高校を中退した子、病気で余命宣告を受けた方、元やくざやホームレスの方もいらっしゃいます。
信仰も、教会で生まれ育った人も居れば、昨日、天理教と出会ったばかりという方もいらっしゃいます。

もう十三年ほど前になりますが、私が修養科中に出会った方を一人紹介させて下さい。
当時、五十代のおじさんでしたが、自己紹介でこんなことを仰いました。

私は、自分がなぜ、ここに居るのか解らない。
私は天理教が大嫌いなんです。

と。

この方は、元々、天理教の信仰家庭に生まれ育たれましたが、お姉さんが修養科を志願して、行くときは元気だったのに、帰ってくるときには、統合失調症を患っていた。ご本人の言葉を借りれば、頭がおかしくなって帰って来た。それ以来、天理教は大嫌いになった。
その後、ご自身も、仕事に失敗したりして全国をさまよい、もうどうなっても良いやという投げやりな気持ちで、東京の代々木公園でホームレス生活を始めようとしたその日、においが掛かって、教会に泊り、翌日、おぢばに連れられて来たとのことでした。

解らないながらも、時に、若い子とぶつかったりもしながら、三ヵ月を過ごされました。
三ヵ月目には、無事、おさづけを拝戴されました。

修養科生全員がおさづけを拝戴した数日後、おさづけの取り次ぎ方の練習も兼ねて、クラスの者同士でおさづけの取り次ぎ合いをする授業がありました。
しかし、彼は、おさづけを誰にも取次ませんでした。
天理教をキライになったきっかけの、お姉さんに、自分の初めてのおさづけを取り次ぎたいと心に決めて居られたからです。
私は、三か月間、彼の笑顔も、怒っている顔も、眠そうな顔も、たくさんの表情を見させて貰い、共に過ごしましたが、この、おさづけの取り次ぎ合いの授業での、どうやって取り次ぐのか、先生はじめ、一人ひとりのクラスの仲間が取り次ぐ姿を真剣に見て居られる、その表情が、十数年経った今も、忘れることができません。

修養科は、心の修養をする場所です。
自分がたすかりたい心から、人にたすかって貰いたい心に、変わる場所です。

私自身も、信仰の元一日から、無い命をたすけて頂き、元気になったつもりで修養科を志願しましたが、二か月目の時に、再発のお手入れを頂きました。
その時、妻から、
「あなたは、病気をたすけられてこの道に入ったのだから、同じような病気で悩む人をたすけなければならない。そのためには、この病気の辛さを忘れてはいけない。忘れないように、神様が思い出させてくれたんじゃないかな?」
という言葉を貰ったことで、私の心は、人をたすけさせて貰いたいという心に大きく切り替わりました。
妻のおさとしも、きっと、おぢばだったからこそ、浮かんだのではないかと思います。

また、その翌年、今から十二年前に教養掛をつとめさせて頂いた時には、修養科生の中に、会社を定年退職したばかりの、壮年期のご婦人がいらっしゃいました。
この方は、元々は天理教の信仰の無い方でしたが、結婚相手の方が布教所をされていたことから天理教と出会われたそうです。
そして姑さんがとても善い人で、天理教のことも大好きになり、姑さんとの約束通り、会社を定年退職した直後に、修養科を志願されたとのことでした。

この方は、とても明るい方で、福井出身なのに、そのチャキチャキな言動から「大阪のおばちゃん」と呼ばれていました。
そんな方でしたが、、、なんて言う話をしていると、あまりにも話が長くなってしまいますので、割愛させて頂きます。

こんな風に、私のわずかな経験だけでも、修養科で過ごす三ヵ月は、人生を、心の向きを大きく変えて下さるという実例の枚挙にいとまがありません。

修養科は、人生を、心を大きく変えて下さる、人生の学校です。
三ヵ月と言えば、仕事や学校を休むわけにもいかず、難しい方も多いかと思います。
しかし、人生で一度は、全ての方に行って頂きたいと思います。
私が教養掛としてつとめる、来年4月〜6月に合わせて頂いても、もちろん結構ですし、受付は毎月ありますから、早速、来月からでも、もちろん構いません。

是非、ご検討ください。

一人のために運び掛けた道やない。世界救けたい、心通り救けたいという道。よう聞き分け。道を始め、こうして多く皆連れ帰る道、水晶の玉の如くに映さにゃならん。濁りありては、玉とは言い難くい。皆心同様にあったら、心に目に見えん。真実水晶の如く成あったら、天よりの働き知らんか。あの人何とも言わんなあ、この人何とも言わんなあ。道は心尽しての道。人間の道やない、神の道。神の道ならおめ恐れ無い程に。この理、よう胸に持ってくれにゃならん。(明治三十三年五月十七日)
(天理教勉強blog: 明治三十三年のおさしづ(公刊おさしづ第五巻より)その2 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431027008.html)

ご清聴ありがとうございました。

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治三十三年のおさしづ(公刊おさしづ第五巻より)その2 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431027008.html
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2023年09月01日

立教186年・九月月次祭神殿講話

立教186年・九月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の九月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

九月四日の唐橋分教会創立130周年記念祭が、いよいよ目前に迫ってまいりましたので、そこに向けての動きを台にお話させて頂きたいと存じます。

しばらくお付き合い下さい。

柏手

週明け、九月四日月曜日に、当教会の上々々級であります、唐橋分教会の創立130周年記念祭がつとめられます。

このおつとめには、若い方々を中心につとめて貰いたいとの想いから、前半下りは部内教会の後継者夫妻、後半下りは、直轄信者さんの若い方々でつとめられることになりました。
が、それでは手が足りないということで、私の妻が、後継者婦人という立場ではありませんが、前半下りのおてふりをつとめることになりました。

で、今年の年明けから、毎晩毎晩、おてふり練習を、夫婦でつとめてきました。
一人でおてふりをした経験の無いところから、よく覚えたなぁと、我が妻ながら、尊敬いたします。

ある時、練習中に、妻が言いました。
「おてふり考えた人って、凄いな」と。
おてふりを考えたのも教えて下さったのも、当然、おやさまなんですが、妻は何が凄いと思ったかと言うと、
「間違えずに踊るのも至難の業なのに、それを間違えずに伝えれたって、信じられないくらい凄い」「ホントだとしたら、それだけで神様として信じられる」と。

なるほど、確かにそうです。

おてふりは、動きそのものは、世間のダンスや伝統舞踊のように、複雑な動きがある訳でも身体能力が高く無ければできない訳でも無く、健康ではない人でもできる動きばかりです。
それでいて、一つ一つの手振りに意味があり、みかぐらうたの地歌と間違いなく一致しています。
そんな、一見、簡単で、意味通りで解りやすいけれども、覚えることはもちろん、それ以上に、間違えずに通して踊ることが、非常に難しい。
それを、この教えの中で、最も大切なものとして、一振りの間違いも無く、お伝え下されたのは、本当に神業だなぁと、妻の言葉を通して実感しました。

逸話篇によりますと、

稿本天理教教祖伝逸話篇一八 理の歌
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/166618287.html
十二下りのお歌が出来た時に、教祖(おやさま)は、
「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖(おやさま)は、
「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、
「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖(おやさま)は、それをごらんになっていたが、
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずから手本を示して、お教え下されたのである。

稿本天理教教祖伝逸話篇一九 子供が羽根を
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/168585645.html
「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に至る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖(おやさま)は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖(おやさま)は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖(おやさま)は、
『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
これは、梅谷四郎兵衛が、先輩者に聞かせてもらった話である。

とありますので、間違いなく教祖が、丁寧に丁寧に、親心いっぱいにお教え下さったのが、このおてふりなんです。

おやさまの御言葉に、
「つとめに、手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/401835339.html
とお教え下さいます。
間違えないように真剣につとめ、なおかつ、明るく陽気につとめる。
それが、天理教のおつとめです。

おてふりは、とてつもなく、奥深いものだなぁと思います。
みかぐらうたの意味を理解できる。
おやさまの親心に想いを馳せることができる。
願いを込めてつとめることで、どうしようもない状況、願いであっても、心を落ち着けることができる。
間違えないように真剣につとめることで、今ある記憶力精神力を鍛えて頂ける。
それでいて、手足が動きさえすれば、誰もが踊ることができる。
そして、このつとめで、世界がたすかる、よろづたすけのおつとめなんです。

そんな明るく陽気に、勇んだおつとめを、おやさまは、何歳の時にお教え下されたのか。
「わしは、子供の時から、陰気な者やったで、人寄りの中へは一寸も出る気にならなんだが、七十過ぎてから立って踊るように成りました。」
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/401835339.html
と教祖ご自身が述懐されている通り、月日のやしろと成られて三十年目の慶応三年のことです。
今の七十歳はお元気ですが、江戸末期の七十歳です。
しかも、地道に地道に、満三年かけて、お教え下された訳です。
妻の言う通り、間違いなく、神業だなと、つくづく思います。

唐橋分教会創立130周年記念祭を目指してつとめる中に、また改めて、教祖の偉大さ、おつとめの素晴らしさを実感させて頂くことができました。

つとめでも月日だん/\てをふしゑ にんけんなるの心でわない(八-7)
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/391317710.html

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇一八 理の歌 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/166618287.html
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇一九 子供が羽根を https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/168585645.html
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝「第五章 たすけづとめ」 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/401835339.html
天理教勉強blog: おふでさき第八号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/391317710.html
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2023年08月01日

立教186年・八月月次祭神殿講話

立教186年・八月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の八月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

まず、ご報告です。
先月を持ちまして、当教会の青年会の委員長を交代させて頂きました。
できれば、私が青年会員を卒業する41歳になるまでに交代させて頂きたかったのですが、結果的に、非常にありがたい形で、交代させて頂くことができましたので、ご報告を兼ねまして、ひと言お話させて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

先月無事に、当教会の青年会の分会委員長を交代させて頂きました。
実は、なかなか思う通りに行かない交代劇でした。
交代して下さった現在の委員長さんには、去年の時点で別席も運び中でしたし、新委員長をお願いしていてご本人からの了承も得られていたのですが、河原町分会の方から、おさづけを拝戴した「ようぼく」であることが望ましいと言われまして、おさづけ拝戴まで、願書提出を保留しておりました。
天理教青年会の会員は、年齢制限がございまして、中学卒業から41歳の誕生日までです。私は、今年の五月で41歳を迎えました。私の個人的な想いとして、何とか、OB委員長としてつとめることなく、委員長の職を後進に譲りたいと考えていました。
別席も順調に運んで下さり、四月に八席目を運び修えて下さいました。
早速おさづけ拝戴願いの巡序を運び、九席目を運んで貰った日に、おさづけを拝戴して貰い、分会委員長変更願いも提出しようという心づもりで、おさづけ拝戴の振り分け日程の連絡を待っていました。
この時点で私は、きっと、願い通り、ギリギリ五月中に交代願いを提出させて頂けるだろうと、希望的観測を抱いていました。
しかし現実は当然、そう甘くはなく、五月のおさづけ拝戴振り分けは平日のみ。六月は、後半になっても連絡が来ないという状況でした。

私の41歳の誕生日は過ぎてしまったし、おさづけの拝戴日程は、物凄く限られている。分会委員長の交代はもちろん、そもそも、おさづけを拝戴して貰う事の難しさを、いつものことながら、改めて痛感しました。
そんな中、7月9日におさづけのお運びの振り分け日程連絡が来ました。
日曜日。
この日を逃してはならないと、ご本人はまだ学校だろうなと解りつつも、次の瞬間に連絡したところ、二つ返事でスケジュールを空けてくれました。
実はその時は曜日のことに夢中で完全に忘れていたのですが、7月9日というのは、前会長の誕生日です。
おさづけの拝戴日を、もう一つの誕生日と呼ばれる先生が多くいらっしゃいます。
これは、別席を運び、たすかりたい心から、たすけたい心へ生きながらにして生まれ変わる、その記念すべき日だから、もう一つの誕生日と呼ばれるようです。
なんて不思議な日程に、当教会の青年会分会新委員長のもう一つの誕生日を迎えさせて頂けたのだろうと感激するような、むしろ怖いくらいに思います。

更にもう一点、彼は特に悩みがある訳でも、たすかって欲しい相手がある訳でもない中で別席を運び始めて下さったので、最初のおさづけを誰に取り次いで貰おうかという思案もしていました。
結論から申しますと、彼の最初のおさづけは、私に取り次いで貰うことになりました。
実は当時、あまりにも酷い肩こりに悩まされていました。
起きている間だけでなく、いや、むしろ寝ている時に酷い肩こりで毎晩毎晩毎晩目が覚めてしまうという状況でした。
夜中の2時3時に目が覚め、そこから背中が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ない。あまりにも我慢できず、起きてストレッチしたり腕立て伏せをしたり、色々やるんですが、全く治まらず、ほとんど寝れない日が続いていました。
昼間の生活でも、姿勢に気を付けたり、枕を替えてみたり、更には、ノートPCだと姿勢が悪くなりがちなので、中古のキーボードを買って来てわざわざノートPCに繋いで、画面が遠く高い位置になるように台の上の乗せて使ってみたりと言った、肩こり予防の為に、傍目から奇異に見える程の工夫をしてみたりもしました。しかしそれでも少しも楽にならない。そんな状況でしたので、少し気持ちは躊躇しましたが、彼の最初のおさづけを、私の背中に取り次いでもらうことにしました。
せっかくなので、おさとしもお願いしました。
ご本人は、おさづけ拝戴直後で疲れてもいたでしょうし、何より訳もわからないまま、大変言葉に困ったと思うのですが、こんなおさとしをして下さいました。

独りで抱え込まず、もっと周りを頼って良いと思います。

と。
涙が溢れました。
彼のおじい様からお借りしたおつとめ着もピッタリサイズで、本当に、本当に、何もかもが有難かった。
前会長の誕生日という日程のこと、最初のおさづけを取り次いで貰い、分会委員長という担う御用をお渡しするべくのおさとしをして下さったこと、おつとめ着のことも含めて、世代交代を一切の躊躇なくお願いしたいと思いました。

OB委員長を避けたいと願いながら、当初は難しいかなと諦めかけていたところが、二か月足らずの期間だけ延長して、交代できました。
41歳を超えたOB委員長の方がつとめる教会ももちろん多いですし、委員長という立場の方の存在すら難しいという教会も少なくない中、こうして交代できるのは、まったくもって当たり前のことではなく、有難すぎることです。
おさづけが拝戴できることも、今までに何度も何度も申しておりますが、決して当たり前ではありません。
そもそも、おぢばに帰ることができるというのも、当たり前ではありません。

おふでさきに、
なんどきにかいりてきてもめへ/\の 心あるとハさらにをもうな(11-78)
(天理教勉強blog: おふでさき第十一号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/394790357.html
とお教え下さる。
まさにその通りであります。

また諭達第四号で真柱様は、
信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。
とお示し下さいました。
教祖140年祭に向かう旬は、自分の次の世代へ引き継いでいく歩みでもあると思います。

人間は誰しも、毎年毎年、年齢を積み重ね、その役割を次に繋げていくのが最大のつとめです。
自分が持つタスキを、次の世代に。
自分の受け持つ道が上り坂か下り坂か平坦か、追い風の中か向かい風の中か、雨の中か晴れの中か、どんなコンディションの道中かは、通ってみなければ解りません。前の世代、後の世代の道を見て、羨ましがったところで、自分が通ることはできません。
自分に与えられた区間を、焦る必要はありません、着実に着実に次の代へ繋いでいく。それがひとりひとりのようぼくに与えられた、最も大きな使命です。

まずは自分自身が、教えを実践する。
その姿、心を、次の世代へ引き継いでいく。
その中に、人間業ではあり得ない、有難い限りの姿をお見せ頂けるものと、私は、今回の分会委員長交代の顛末を経て、信じることができました。

このにんもいつ/\までもへらんよふ まつだいつゝききれめなきよふ(7-24)
(天理教勉強blog: おふでさき第七号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/388474788.html
おやさまも、それを待ち望んで下さっています。
共々に、一歩一歩を積み重ねさせて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: おふでさき第十一号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/394790357.html
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2023年07月01日

立教186年・七月月次祭神殿講話

立教186年・七月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の七月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

去年の五月に新型コロナウイルスに感染、発症しまして、幸い家族全員軽症で済んだんですが、私はいまだに、左耳が耳管狭窄で詰まったような、籠ったようなそんな感じで過ごしています。
2類から5類に法律上は変わりましたし、大半の方は軽症で大丈夫だといわれていますが、ウイルスの性質が変わったわけではなく重症化する方もいらっしゃいますし、またたとえ軽症であったも、できることなら、私は他の方には、同じような想いをして貰いたくないなぁと思っております。
くれぐれも、感染対策等、お気を付けてお過ごし下さい。

さて本日は、お若い方も御参拝下さっていますので、できるだけ身近なお話をさせて頂きたいと存じます。
しばらくお付き合い下さい。よろしくお願いいたします。

柏手

私の最近の趣味なんですが、カラオケです。
カラオケと言っても、お店に行く時間やお金がありませんので、スマホの「ポケカラ」というアプリを使って歌っています。
有難いことに無料で使えますし、10分15分の隙間時間にサラッと歌えますので、重宝しています。
先ほど言いましたように、耳管狭窄で左耳と右耳の聴こえ方が違っていますので、イヤホンは両方の耳には付けずに、片方ずつで使っています。
で、歌った曲は、同じアプリを使っている人に公開して聴いて貰うこともできます。
私は別にうまい訳でもなんでも無いので、人に聴いてもらうほどのことも無いんですが、せっかくなので公開していますと、少しずつ、聞いて下さる人も出て来ます。
中には、「この曲歌ってください」とリクエスト下さる方もあります。
最初は、私が一度歌った歌をもう一度歌って欲しいといった事から始まり、共通の好きなアーティストの曲、次いで、私に伝えたい言葉が歌詞に含まれた歌などと積み重なり、先月は、私から聞きたい言葉が歌詞に含まれた曲をリクエストされるようになりました。

年齢は十代から五十代と幅広く、正直言って、聴いたことも無い、知らない曲ばかりでした。
まぁでも、これも広い意味でのおたすけかと思い、デスクワークや片付けをしながらYoutubeで繰り返し流して聴き覚え、リクエストにお応えしてみました。

ただ、とても興味深いのが、これだけ幅広い年齢層でありながら、曲のテーマがすべて同じだったことです。

実際にリクエストされた曲のタイトルを並べてみます。

Mrs. GREEN APPLEというバンドの「ダンスホール」
Little Glee Monsterというユニットの「きっと大丈夫」
wacciというバンドの「大丈夫」
Hilcrhymeというラップユニットの「大丈夫」

もう、しつこいくらいに、「大丈夫」というタイトルが並んでいます。
Mrs. GREEN APPLEの「ダンスホール」という曲も、「ダンスホール」と「大丈夫」を掛けた歌詞で何度も「大丈夫」という言葉がくり返される曲です。

みんな、「大丈夫」って言われたいんだなと痛感します。
私の下手な歌で無く、実際にプロアーティストとしてリリースされている曲ですから、本人達の曲を好きなだけ聴けば良いはずなんですが、要するに、ちょっと頼りになりそうな人から、「大丈夫」と言って貰いたい。そんな小さな願いが、私へのリクエストだったんだと思います。

身近な方に、困っている方、ツラい想いを抱えながら頑張っている方がいらっしゃったら、是非、「大丈夫!」と言い切ってあげて下さい。
たすけを求めていそうな方には、「大丈夫?」と疑問形で聴いては、オウム返しに「大丈夫」としか返って来ませんので、そんな時は、「だいじょばなさそうだけど、何か手伝えることはあるかな?」と言った声掛けをしてあげて下さい。
そして、少しひと段落したら、必ず「大丈夫」と言い切ってあげて欲しいです。
互いに「大丈夫」と言い合うのも良いと思います。

またそういった言葉だけでなく、私のカラオケのように、自分がただ純粋に趣味特技として楽しんでいるようなことからも、ちょっとしたおたすけに繋がることも、数多くあります。
自分自身の趣味特技を、大いに楽しんで良いと思うんです。
それは、神様から与えて頂いた、自分の徳分ですから。

Mrs. GREEN APPLEの「ダンスホール」という曲には、こんな歌詞があります。

いつだって大丈夫
この世界はダンスホール
楽しんだもん勝ちだダンスホール

天理教のおつとめは、明るく陽気に、歌って踊ります。
おやさまのお言葉に、
わしは、子供の時から、陰気な者やったで、人寄りの中へは一寸も出る気にならなんだが、七十過ぎてから立って踊るように成りました。
とあります。
おやさまが、おてふりを教えて下さったのは、70歳を越えられてからのことです。
今の70歳はまだまだお若いですが、別席のお話にも「当時は六十才にもなれば、老人として手篤く扱うたもの」とあるように、当時の70歳は、今の感覚で言えば、80歳90歳というようなかなりの高齢者として見られていたと思います。
そして、この老いも若きも、明るく陽気に歌って踊るおつとめによって、よろづたすけをお見せ頂けるんです。

おつとめは、人の、世界のたすかりを願い、老いも若きも、明るく陽気に歌って踊る。
そして日常生活では、自分に与えられた徳分を、趣味特技として大いに楽しみ、その楽しんでいる姿を以って人に喜んで貰う。
そんな楽しみ尽くめの毎日が、陽気ぐらし世界へと近づく、一歩一歩の積み重ねだと思います。

天理教の信仰、おやさまがお示し下されたひながたは、楽しむものです。
そんな喜び楽しみ尽くめの毎日を、共々に、「大丈夫!」と励まし、勇ませ合いながら、通らせて頂きましょう。

せかいにハこれらとゆうているけれど 月日さんねんしらす事なり(14-22)
せかいぢうどこの人でもをなぢ事 いつむばかりの心なれとも(14-23)
これからハ心しいかりいれかへて よふきづくめの心なるよふ(14-24)
月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから(14-25)
天理教勉強blog: おふでさき第十四号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/395907927.html

ご清聴ありがとうございました。

さて、今の話で、「大丈夫」って何回言ったでしょうね?

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天理教勉強blog: おふでさき第十四号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/395907927.html
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝「第五章 たすけづとめ」 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/401835339.html
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2023年06月04日

立教186年・6月4日 講話

立教186年・6月4日 講話







ただいまは、6月の寮祭を、勇み心一入につとめ終えさせて頂きまして、誠に有り難うございます。


順番が回って来ましたので、一言お取り次ぎさせて頂きます。しばらくお付き合い下さい。よろしくお願いいたします。

柏手

2ヶ月、大阪の街をお歩きになって、いかがでしょうか?
大阪の街の特徴みたいなものは感じておられますでしょうか?

テレビなど、世間一般には、大阪の街の特徴、例えば、おばちゃんはみんなヒョウ柄を着ているとか、お好み焼きと白ご飯が一緒に出てくる「お好み定食」が定食屋さんの定番メニューだとか、一通りしゃべった後に、「知らんけど」を付けるとか、色々言われておりますが、まぁ、ハッキリ言って、そんな特徴はほとんど見付けられないと思います。
これらの特徴は、大阪でも一部の地域、ごく少数の方に見られる特徴であって、大阪のスタンダードではありません。でもそれを、テレビなんかで、それがスタンダードかのように、誇張して伝えられているのが現実です。言わば、作られた特徴ですね。本当のところは、知らんけど。

ただ、それでも強いて特徴を挙げるとすれば、狭い面積の中に、多様なルーツを持った方が住んでいるということだと思います。
例えば東京だって、大阪より多様な特徴、ルーツを持った人が住んで居ますが、それぞれの居住地域が離れがちなので、その多様性に気付きにくいと言えます。
大阪の場合は、居住地域そのものがかなり近距離なので、少し歩けば、多様性を目の当たりにすることになるわけです。
この教務支庁があるのは、大阪の中でも有数の高級住宅街。しかし西にも東にも、この上町台地を下れば、低所得の方が多く住まう地域があります。在日コリアンの方が多い地域、被差別部落だった地域、沖縄ルーツの方が多い住まう地域などありますが、全て、ここから歩いて行って、戸別訪問百軒以上回っても、帰寮時間までに十二分の余裕を持って帰って来れる距離にあります。
実は地域的特徴は別れているのに、距離が近い為に、多様性が高いように見えてくる訳です。

ですから、大阪以外の地域と同様に、マイノリティに対する差別もありますし、同時にその分、本当に多様な方が全国から集まる素地もあると言えます。

私のおたすけ相手の方で、レックリングハウゼン病だった方がいらっしゃいました。
大阪の街では時々見掛ける、非常に特徴的な見た目の病気です。その見た目から、差別の対象になってきた歴史がありますし、親族家族も、隠そうとされることが多いせいか、大阪以外でお見かけすることは、ほとんどありません。
その点、大阪は、先ほど申しましたように、多様性を受け入れているように見える地域ですから、この病気の方々も、他の地域に比べて、かなり多くお住まいなんだと思います。

これが、レックリングハウゼン病の方の写真です。
おたすけ相手の方、Mさん御本人の御言葉を借りると、「イボガエル」のような見た目が特徴の病気です。
見た目を除けば、他人に感染する訳でもなく、特に支障はありません。
稀に知的障害を伴ったり、さらに稀に、癌化することがある程度です。

Mさんも、出会った頃は、ちょっと知的に障害があるかなぁと見受けられましたが、療育手帳も受けず、普通に働いておられました。
お出会いしたのは、20年以上前になります。
当時、私どもの教会の普請がありまして、その普請の間、近くのお宅をお借りしていたのですが、そこにはお風呂が無かったので、銭湯に通っていました。その銭湯で、私の母と、Mさんの奥さんとが出会い、仲良くなって、教会にお越し下さるようになったのが、きっかけです。
奥さんには明らかな知的障害があって、療育手帳も受けておられました。
こうしたハンデのあるご夫妻でしたが、旦那さんは普通に働き、小さいながら、マイホームを建てて暮らし、教会のひのきしんに通って下さり、穏やかな生活をされていました。
私の会長就任奉告祭にも参拝して下さいましたし、教祖130年祭の年祭活動中に、初席だけですが、別席も運んで下さいました。この、別席を運ぶ際に、奥さんは、誓いの言葉の文字も読めないということが解りました。それでも、旦那さんの隣で、真似をして、お誓いをして下さいました。
本当に、穏やかなご夫婦でした。

そんなご夫妻に異変が現れたのは、今から7年前の秋のことです。
まず、私達教会の者にはナイショで、猫をツガイで飼いはじめられました。私達に言うと、怒られると思ったからだそうです。
別に猫を飼うくらい反対しませんし、一言言って下さっていたら、避妊手術などアドバイスできたのですが、たった2匹から始まった猫は、あっと言う間に増え、近所から苦情が来る程の猫屋敷になり、猫は猫で自分の子を育てられず、生まれたばかりの子をオモチャのように放り投げて遊ぶような、見るに堪えない状況になりました。
さらに時を同じくして、旦那さんのレックリングハウゼン病でできていた胸の腫瘤がどんどん大きくなりはじめました。めったに起きない、癌化が始まっていたんです。

私達教会の者としては、まず病院に行って貰いたいのですが、頑なに行って下さいません。
手をこまねいている内に、旦那さんの胸の腫瘤は頭と同じくらいの大きさになり、体液も流れるようになり、それに古いシャツを巻き付けて抑え、肉の腐ったような、強い臭いを放つ状態になってしまいました。

なぜ、この状況で、病院に行って下さらないのか?
元々病院嫌いということもありますが、猫のこと、そして何より、奥さんは、銀行でお金を引き出すこともできず、放っておいたら、生活できない。今病院に行ったら、確実に入院することになるだろう。そんな状況を置いて、病院には行けないとのことでした。

そんな切羽詰まった状況の中、ようやく、Mさんの御実家である和歌山県にお住まいの、Mさんの姪ごさんと連絡がつき、ご親族として、猫の処分、奥さんにケアマネージャーを手配して下さいました。

6年前の7月のことです。

そして、8月7日、ケアマネさんとの初面談を見計らって、事前に近所の皮膚科を受診し、大きな病院を紹介して貰おうと、本格的なおたすけに動き出すことにしました。
ケアマネさんとの面談に同席させて頂き、早速、下調べしていたクリニックに電話してみたところ、午後の診療は予約のみ、12時半までに行けば午前の診療で受け付けると言われました。時計を見ると、11時45分。大急ぎで診療所へ向かいました。

この後から、途方もない苦労が始まるのですが、このクリニックにかかれたことが、大いなる奇跡の始まりでもありました。

まず、今まで古いシャツで体液を抑えていたものを、紙オムツで対処しようとご提案下さり、また、往診もして下さることになりました。
ご出身の大阪市立大学附属病院に紹介状を書いて下さり、早速、受診することになりました。

日を置かずしてすぐに、天王寺にある大阪市立大学附属病院の皮膚科を受診したんですが、開口一番、「うちでは診れません」と。
で、また後日、同じく大阪市立大学附属病院の整形外科を受診することになりました。
整形外科でも患部の写真を撮ったり、触診されたりしていましたが、やはり同じく、「うちでは診れません」と。
で、皮膚科でも、整形外科でも、はじめに言われることは、「お前は誰やねん」です。名刺を出して立場を説明して、半信半疑な様子で、接しられる訳です。
整形外科では、「天理教の信仰をされているのであれば、天理よろづで診てもらってはどうですか?」と言われ、また後日、憩いの家を受診することになりました。
それまでの間、最初に受診したクリニックから、「レックリングハウゼン病は難病だから、申請すれば医療費の補助が受けれる」と言われ、区役所に通ったりもしました。この時点では、細胞の生検が後回しでしたので、後日、申請しますということで、見込みの受付を済ませました。

憩いの家には、8月23日に受診しました。
ここでなら、きっと何とかして貰える。という期待と、もし無理だったら、もうどうにも出来ないという不安の入り交じった気持ちで、Mさんをお連れしました。

診察室に入り、担当医の先生は、ベッドの上でMさん服、体液を抑えていた紙オムツを外し、ザッと眺めて、「うちでは診れません」と仰り、再び服を着せはじめられました。
すがるように、「治療はできませんか?」と尋ねると、「これも治療です」と返されました。
私の心に浮かんだのは、絶望、その一言でした。

しかしせっかくですので、受診後、おぢばを参拝し、待合室に続いて、ご本部参拝場でもおさづけを取り次がせて頂き、大阪へ帰って来ました。
その帰りの車の中で、Mさんが仰いました。
「元気になったら、また、お話、聴きに行きます。途中で止まってて、申し訳なかった」と、別席を運びたいと。
嬉しかったです。嬉しかったと同時に、いや、今、それどころやないやろう、と。顔は笑顔を取り繕っていましたが、心の中は、ぐちゃぐちゃにかき乱されていました。

最初に受診したクリニックに報告し、何度かやり取りをしましたが、私の心の中は、諦めの気持ちが、どんどん大きくなってきてしまっていました。
やり取りの中で、クリニックの方は、とにかく受け入れていくれる病院を手当たり次第に探したいから、東京とか、遠方になっても良いかと聴かれました。
私自身はやぶさかではありませんが、Mさんは和歌山で生まれ育ち、中学卒業後、ずっと大阪で働いて来られた方です。万が一、途中で何かあった時、できるだけ、故郷や慣れ親しんだ地域の近く、関西で探して貰った方が良いと思う、と、口をついて出ていました。
こんなやり取りをしながら、クリニックの方が諦めずに頑張り続けて下さっていることを思い知り、諦めかけている自分が、おたすけ人として、本当に申し訳無かったと思いました。
そして心の中に、逸話編の「子供が親のために」のお話を思い出しました。

「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」

その足でMさんのお宅に伺い、「諦めたくないですよね」と声を掛け、もう、蛆がわき始めているMさんの胸におさづけを取り次ぎました。

翌日、大阪国際がんセンターが受け入れてくれそうだから、受診して欲しいと、クリニックから連絡がありました。

また、「お前は誰やねん」から始まりましたが、ここで初めて、精密検査をして下さいました。
検査の結果を伝えられる際、「今から、大変、重いことをお伝えしなければなりません。本当なら、ご家族、ご親族にしか伝えられません。この人に、聞いて貰っても大丈夫ですか?」と何度も念を押され、Mさんからハッキリと、「聴いておいて貰いたい」と言って頂けたので、私も伺うことになりました。

曰く、

表面の腫瘤は、ガンです。それが、肺にも拡がっています。
表面に大きくなってきているのと同じスピードで肺のガンも大きくなり、3ヶ月程度で呼吸が止まります。
表面に見えている腫瘍を取らなければ、どこも受け入れてはくれないと思います。
この病院は、ガンの急性期の方ばかりの病院ですので、今のように、体液が流れ、蛆がわいているような雑菌だらけの状態の方を、免疫力が落ちた方々と一緒に入院させることはできません。
そして、この表面の腫瘍も、取れるものなのか、取っても大丈夫なものなのか、さらには、取れたとしても、皮膚を移植するにも、皮膚の難病がある中で、体のどこから移植できるか、それも解りません。
それでも、何とかしないと、どうしようもないので、検討させて下さい。
手術できるかどうかは解りませんが、とりあえず、提携している病院に入院して下さい。

とのことでした。
その日の夜から、大東市にある病院に入院されることになり、奥さんは、私共の教会とご自宅を行き来する、半住み込みのような環境で過ごされました。
夜は、奥さんと妻が一緒に寝るようにしていましたが、夜中に突然泣き出されることもあったようです。

大東市の病院には、最初の手筈を整えて下さった姪ごさんが家族でお見舞いにお越し下さり、今後のことを相談しました。
また、奥さんのごきょうだいも教会にお越し下さいましたが、Mさんご夫妻以外は誰も天理教をご存じない方々でしたから、訝しげなご様子でした。

1週間程して、大東市の病院が来て欲しいと言っていると、ご親族から連絡がありました。
ですが、何時に行けば良いかも解らず、とりあえず、昼前に着くように準備して、奥さんをご自宅へ迎えに行こうとした所に、大東市の病院から電話があり、転院なのに、まだ来ないのかと、言われてしまいました。

そんなことは、一言も聴いてない!

その理不尽な応対にブチギレてしまい、怒鳴ってしまいました。
振り返って考えれば、誰も受け入れたく無いような方を受け入れて、お世話取り下さっていることに対する感謝の心があまりにも薄かったのだと、心から反省しています。
直接お会いしたことも無い方で、謝罪のしようもありませんが、この話を人にする度に、その場を借りて、お詫びしています。
今回も、この場をお借りして、謝罪させて頂きます。
誠に申し訳ありませんでした。

転院後は、スムーズに手術もして頂け、胸の腫瘍は切除され、人工皮膚でカバーして下さいました。毎日、おたすけに通わせて頂きながら、様々な手続きをお手伝いさせて頂きました。難病申請には皮膚から細胞を取って遺伝子検査をする生検が必要でしたが、クリニックの先生から、「明らかにレックリングハウゼン病で間違いないから、時間もないし、私が責任持つから、生検無しで申請しましょう」と言って下さり、難病申請も無事に済みました。また、生命保険の手続き、奥さんの今後の生活を考えて、生活保護の申請相談にも付き添いました。結果的には、生活保護の受給無しで、生活を維持できておられます。

その後Mさんは、9月19日に退院し、姪ごさんご夫妻に連れられて、和歌山の御実家に戻られました。
また、奥さんも、ごきょうだいと私とで、家の片付けをし、こちらも、和歌山の御実家へ戻られました。この頃には、奥さんのごきょうだいも私達教会の者を信用して下さるようになり、教会で参拝もして下さいました。奥さんのお姉さんは、お寺の奥さんなんですけどね。
後日、ご自宅は、ご親族の手続きで、不動産屋さんへ、無事に売りに出すこともできたそうです。

その後、和歌山でのご生活が落ち着かれたら、1度おたすけに伺いたいと思っていましたが、一方で余命僅かとも解っていましたので、早すぎも、遅すぎもしない日程を思案していました。
10月に入り、姪ごさんと相談しはじめておりましたが、10月6日、もう長くないようなので、早めに来て欲しいと告げられました。和歌山の御実家は、かなりの山奥にあり、当時教会にあったワゴン車では通行が難しいと下調べしておりましたので、大教会の当番日でしたが、慌てて10月7日のレンタカー予約を入れました。ネットでの受付は締め切られてしまっていましたが、電話で直接店舗に問い合わせると、何とか、軽自動車を予約することができました。
大教会の役員先生にも報告し、朝の神殿掃除と献饌が終わり次第、朝づとめは勝手させて頂き、大阪へ戻らせて貰えることになりました。

準備万端。
後は、寝るばかりとなった、午後10時、姪ごさんから、今、亡くなったと電話が入りました。

準備はできておりましたので、先ほど申しました予定通り、献饌が終わり次第大阪に戻り、レンタカーを受け取って、母を乗せ、和歌山の御実家へ向かい、お悔やみさせて頂きました。

8月7日から、10月6日までの、僅か2ヶ月間のおたすけが、終わりました。
ほとんど毎日のようにおさづけを取り次ぎ、目に見えるご守護は無かった訳ですが、クリニックの看護師さんからは何度も何度も、いつ敗血症を起こして亡くなってしまうかも解らないと言われていたところを、1度もそんな気配すらなく、また、何度となく病院から受け入れを断られ続けていながら、神様のレールに乗り始めれば、その後は何の心配もなく、御実家の布団の上で、御親族に囲まれて出直されていったことは、間違いなく、奇跡的なご守護だとも思います。

後日、姪ごさんからお手紙を頂きました。

一部読ませて頂きます。

結局、Mさんはようぼくになれずに出直されてしまいましたが、天理教のことなど何も知らない御親族に、精一杯、教えを伝えて下さっていたのだなと思います。

さて、ここに居る私達は全員、おさづけを拝戴したようぼくであり、中でも、教えを伝えて、ようぼくを増やし育てる信念を持った、布教師です。

しかし、Mさんのように、おたすけ人として、私なりにではありますが、命懸けでおたすけさせて頂いた方が、しかも、心からようぼくになりたいと願って下さった方が、ようぼくになれずに出直されて行く現実もあります。
実は去年、Mさんのお出直し後、初めて、夢にMさんが出てきてくださいました。

Mさんと、もう一人、若い、こちらも障害があるのか、歩くのがゆっくりな女性をお連れして、3人で別席場に向かっている夢でした。
もう一人の女性があまりにゆっくりなので、Mさんに先に別席場へ向かって貰いましたが、受付時間に間に合わず、締め切られてしまいました。
別席場一階の隅で、Mさんは座り込んでしまわれました。
私はダメ元で、もう一人の女性を連れて受付を懇願したところ、「ナイショですよ」と受付て下さいました。
女性を初試験場へ送り出し、Mさんに、「ナイショだけど受付て貰えるみたいですよ」と声をかけたところ、「いや、もう良いです」と、うずくまってしまわれました。ふと辺りを見ると、Mさんと同じように、うずくまっている方が、数えきれないほどたくさんいらっしゃる姿を見たところで、目が覚めました。

現実には、別席場受付での、こんな受け答えはあり得ません。
しかし、Mさんと同じように、願い出ていながら、別席を運び、おさづけを拝戴することが出来ない方が、物凄くたくさんいらっしゃるというのは、これは、間違いなく事実だと思うんです。

私達布教師は、おたすけをし、そのたすかって頂いた方に、おさづけを拝戴してもらい、今度は人をたすける行いをして行って貰うのが、使命です。
ようぼくとは、陽気ぐらし世界という建造物の木材になることです。
たくさんのようぼくが寄り集まり、陽気ぐらし世界という建造物が出来上がっていく訳ですが、こんなに遅々とした歩みで、陽気ぐらし世界なんて、できるのかと、考えてしまうかも知れません。

しかし私は、こんな経験をしていながらも、いや、間違いなくできると、信じています。
それは、この絵本にあります。
秀司様、こかん様が見て居られたのは、見渡す限りの田園風景です。
当時、教祖の御言葉に、「屋敷の中は、八町四方と成る」とか、「廊下の下を人が往き来するようになる」とか、「何ないという事のない繁華な町になる」とか、現在の姿を予言されていた御言葉はたくさんありますが、それを、具体的なイメージで想像できていた人は、おそらく一人も居なかったと思うんです。
私達が、現在の神殿、参拝場を見ながら、当時の田園風景が想像できないなんていうのとは、完全に別次元の想像力が必要だからです。
想像もできない予言が、現実になっている。しかも、私達はそこに、当たり前のように立って居るんです。
こうした事実を享受しておきながら、ちょっとくらいうまく行かないおたすけがあっても、陽気ぐらし世界が実現しない、実現するのは至難の技と言える訳がありません。

とは言え、にをいがけ・おたすけには、ツラいこと、苦しいことも、数知れずあります。
しかしまずは、ようぼくという立場を与えられていることは、非常に珍しい、有難いことなんだと知っておいて下さい。
私達は、万人の中から選ばれた存在なんです。

もう出直されてしまいましたが、この、布教の家大阪寮の寮長をかつてつとめられた、竹川俊治という先生がいらっしゃいました。
大阪、日本はもとより、海外へも布教線を伸ばした、伝説の布教師です。
私の両親の仲人でもありますので、竹川俊治先生が居なければ、私は生まれても居なかったかも知れません。

竹川先生が晩年、青年さんの運転する車で、おたすけに回る際、時々、胸ポケットに入れたメモ書きを眺めて居られたそうです。
そこには、
「私は万人の中から選ばれた天理教の誠のおたすけ人ではないか!
俺がやらずして、一体だれがやるのか!」
と書かれていたそうです。

伝説の布教師であっても、おたすけには、きっと、不安がいっぱいあったんだと思います。
だから、こうした言葉で、御自身をふるい立たせて居られたのだと思います。

ようぼくという立場は、当たり前ではありません。
万人の中から選ばれた存在です。
願ってもなれなかった方が、数知れずいらっしゃいます。

今も、これからも、自分自身の身体をお返しするその日まで、イチようぼくとして、その使命を全うさせて頂きたいと存じます。

おふでさき第七号
015 これまでもなんでもよふ木ほしいから たいていたづねいたるなれども
016 このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり
017 このきいもたん/\月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや
018 それからハにち/\月日みさだめて あとのよふ木のもよふばかりを
019 それよりもひねた木からたん/\と ていりひきつけあとのもよふを
020 にち/\に月日をもわくふかくある をなじところに二ほん三ぼん
021 この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく
022 このあといなにのはなしをするならば よふ木のもよふばかりゆうなり
023 よふ木でも一寸の事でハないからに 五十六十の人かずがほし
024 このにんもいつ/\までもへらんよふ まつだいつゝききれめなきよふ
天理教勉強blog: おふでさき第七号。 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/388474788.html

ご清聴有り難うございました。
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2023年06月01日

立教186年・六月月次祭神殿講話

立教186年・六月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の六月の月次祭を勇んでつとめて終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

先月は、子どもが、ずーっと足を怪我しっぱなしでしたので、そこから思案致しましたところを、お伝えしたいと思います。
しばらくお付き合い下さい。よろしくお願いいたします。

柏手

先月の中頃だったと思うのですが、夜、子どもの泣き叫ぶ声が聞こえて来ました。
ふざけていたのか、振り回していた右足を壁にぶつけて、大泣きしておりました。
怒って良いのか、笑っていいのか、慰めて良いのか、よく分からない気持ちになりました。

さらにしばらく経って、今度は左足の爪先が痛いと言い始めました。
見ると、巻き爪になっていましたので、消毒したり、膿を出したり、家庭内でできる治療をしました。
実は私も、サイズのキツイ靴を履くと、よく巻き爪を起します。
症状や回復の過程など、自分とそっくりだなあ、遺伝子の成せる業かなあと感じました。

そして、つい先週末のことです。
キックベースを習っているんですが、その練習中に肉離れを起こしたらしく、左足の付け根を傷めて帰って来ました。

さて、ここまで度重なると、
「何か、神様からのお知らせ、警告だろうか?」
と考えてしまうのが、人間の悪い癖です。

自分の通り方を振り返ったら、そりゃあもう、思い当たる節しかありません。
あれだろうか、これだろうか、いやいや、こっちかも知れない、いやあっちかも、、
考えても、自分の不甲斐なさ、心の汚さしか思い付きません。

本当に大切なのは、喜ぶことです。

元気に遊んでいるからこそ、壁に足をぶつける。
成長して足が大きくなってきたからこそ、巻き爪を起す。
仲間と夢中に打ち込んでいるからこそ、肉離れを起こす。
何より、大難を小難にして頂いていること。
病院に連れて行こうかと、三回ともしばらく様子を見ましたが、三回とも受診の必要性を感じないような、物凄い早さの回復でした。

反省をしても尽きませんが、喜びを探すと、もっと尽きません。
どちらも無限にあるようですが、同じ無限でも、喜びの方が、多いように思います。

ただ、一つ感じるのは、おたすけの際には、こうした考え方をスムーズに伝えられるのに、我が事になると、マイナスに考えてしまうということです。

だから、おたすけしないと行けないんだなと思いました。
人に対して励ましの言葉を掛けることは、難しいことではありません。
しかし自分自身に対して励ましの言葉を掛けるのは、難しいものです。
人間だれしも。
だからこそ、常に人を励まし慣れていることで、自分の身に何か起こった時、自分で自分に励ましの言葉を掛けることができるのだと思います。
積み重ねが必要ですが、「人をたすけて我が身たすかる」とは、こんな素朴な意味もあると感じました。

おさしづに、
どんな事情あるとも聞くとも、腹立てゝはならんで。何ぼどんな事情言うとも、めん/\の身を責めに歩いて居よるのや。どんな所へも、皆我が身を責めに出て居るのやで。その中尽す、実々の道を通る者は、案じる事は要らんで。皆善き道へ連れて通る
明治二十四年一月十三日 郡山分教会山城講社取り堅めの願

とお教え下さいます。
教祖140年祭へ向かう三年千日は、おたすけの旬であり、自分自身がたすけて頂く旬ですから、何よりも、おたすけを第一に、共々につとめさせて頂きましょう。
ご清聴ありがとうございました。

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: おさしづ補遺(明治二十四年)(公刊おさしづ第七巻より)その1 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431844268.html
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2023年05月01日

立教186年・五月月次祭神殿講話

立教186年・五月月次祭神殿講話






ただいまは、当教会の五月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

教祖140年祭執行のその日まで、あと、1001日です。
残すところ、僅か千日という日に当たりまして、改めて、年祭活動、特に、第一年目の、「種まき」についてお話させて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

先日、料理をしながらラジオを聴いていますと、「幻のタマネギ・泉州黄」の紹介をされていました。
今では大阪府泉南郡田尻町の特産品になっていますが、昭和62年頃に当時主流となっていた玉ねぎに取って代わられ、一度は姿を消した玉葱です。種も栽培されなくなっていましたが、町内の農家が自宅の床下で20年間大切に保存されていたことが平成18年にわかりました。
そこで、当時の大阪府立食とみどりの総合技術センター(現在の地方独立行政法人大阪府立環境農林水産総合研究所)にその種を持ち込み、発芽試験を行ったところ、3割〜6割の種が見事に発芽に成功したので栽培することとなり、現在、特産品として復活したとのことでした。

種、というのは、凄いものだなぁと思いました。
二十年経っても、発芽する力を持っている訳です。
しかし一方で、そんな秘めた力を保存し続けられる種というのも、蒔かなければ芽は出ません。
また当然、その種は、新鮮な方がよく発芽します。
二十年保管していては、発芽率は五割前後になってしまうということです。
また、いくら新鮮で、丁寧に種を蒔いても、百パーセント発芽する、ということもあり得ません。

教えも同じです。
よく「人は死んでも教えは残る」と言いますが、それは誤解だと思います。
人がいつかは亡くなるように、その思想もいつか消えるのが自然の道理です。
残された教えが大地に根を張り、活力を保っていくには、植物のような水やりと伝播が不可欠です。
胸に花の種を秘めているだけでは、花は咲きません。

では実際に、種を蒔くとどんなことが起こるのか?

自分の心が変わるんです。
人に教えを伝えようと動く度に、自分が何も知らない、何も解っていない、ということに気付かされ続けるんです。

ある時、おぢばがえりに人をお連れし、天理の本通り商店街を歩いている際、
「この商店街は神具店がたくさんあるんですよ」と紹介しました。
するとその方は、
「へぇ!天理は布団が名産の街なんですね!」
と仰いました。
神様の道具の神具と、布団などを扱う寝具。
同じ発音ですが、意味は全く違います。
一般的に使う頻度は、布団の意味の方が遥かに多い。
そんな当たり前の常識を、私は全然解っていなかったなぁと思いました。

また先日、ある方の御葬儀に際し、私は「みたまうつし」も「告別式」も、教服で行いました。
重服という、神式の装束を着る場合もありますが、それはあくまでも、神道の名残。天理教式の葬儀で使用しなければならないものではありませんし、教服で行ったからと言って、葬儀の「格」が下がるというようなこともありません。
しかしながら、ご遺族は、重服で執り行って欲しかったと、後からご指摘頂きました。
私は自分の常識に囚われて、ツラい気持ちを抱えながらも葬儀の場に立たれるご遺族のお気持ちに寄り添えて居なかったなと、今更取り返しのつかないことですが、心底、反省致しました。

また、別席に人をお連れすると、帰り道で、別席の御話について、質問される場面が多々ありますが、ほぼ毎回、答えに窮するようなご質問を受けます。
私は、教会長という、いわば天理教のプロフェッショナルという立場でありながら、教理について全然理解できていないといつも頭を抱えます。
これは、何人お連れしても、何度お連れしても、いつもいつも考えさせられます。
そして、お連れした方以上に、自分自身が教えを学ぶことになる訳です。
分かってから伝えるのではなく、伝えようとするから解って来るのだなぁと、いつも痛感します。

またある時、別席にお連れした方に、「おぢばがえり」という言葉を掛けると、不思議と、キラキラした目で反応されました。
この方は、小学生の頃、同級生達が皆、夏休みには「こどもおぢばがえり」に参加していて、夏休み明けは「こどもおぢばがえり」の話で持ち切りだった。けれども、自分は親に反対されて参加できず、いつも寂しい想いをしていたとのことでした。
それこそ、子どもの頃に蒔かれていた種が、二十年経って芽生えた姿だったのだと思います。蒔いたはずの教会の方は、彼の事をまったく知らないだろうにです。

さて、この方がようぼくになられ、おさづけ拝戴のお運びを終えられた帰り道、別席の話を聴く度に、熊木杏里(くまきあんり)さんの「誕生日」という歌を思い出したと教えて下さいました。
「かんさい情報ネットten.『めばえ』のテーマソング」ですので、ご存知の方も多いかと思いますが、私はその時初めて知りました。
歌詞の一部を紹介しますと、



ああ、確かに、この道の教えにリンクするものだなぁと思いました。
この方を別席にお連れしていなければ、私は今も、この曲を知らないかも知れません。

人に教えを伝えるというのは、つくづく、自分が教えて貰う機会を増やすことなんだなぁと思います。
もちろん、教えを伝えるのは簡単なことではなく、なかなか伝わらないもどかしさ、芽生えを目の当たりにできないツラさ、また失敗して後悔する情けなさ。
色んな感情も生みます。

しかし、転ぶのは、歩いたからです。
転んだ分だけ、失敗した分だけ、教えが深く自分の心に根差し、自分自身がたすかって行きます。
間違いなく。

年祭活動の第一年目は、種まきの旬です。
生えるか生えないか、成功するか失敗するか、そんなことは、蒔いた本人にとって、一番良いように、神様が導いて下さいます。
大切なのは、蒔くか、蒔かないか、です。

おさしづに、
一年で蒔いた種が、一年で生える。二年で蒔いた種が、二年で生えるのもある。又蒔いた種が生えんのもある。なれど一旦蒔いたる種は、どうでもこうでも生やさにゃならん。生えんという理は無い。どんな事も談示したとて、聞く者は無い。残念。相談する人も無し、掛かり掛けた道どうなろうと、残念々々の道も越して来た。涙をこぼして越した日もある。種を蒔いたから今日の日や。広い地所があっても種を蒔かねば草山や。草山は草山の値打ち。(明治二十四年一月二十八日 夜八時半 刻限)

とお教え下さいます。
私達は、すでに、誰かに蒔いて貰った種を胸に抱いています。
それを今度は、自分が蒔いていく。それによって、人もたすかるし、自分もたすかり、着実に、陽気ぐらしの世界が実現していきます。

胸に種を秘めているだけでは、花は咲きません。

残り千日の旬に、盛大、蒔かせて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。
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2023年04月01日

立教186年・四月月次祭神殿講話

立教186年・四月月次祭神殿講話







ただいまは、当教会の4月の月次祭、並びに、春の霊祭りを勇んでつとめ終えさせて頂きまして、まことに有り難うございます。

霊祭をつとめさせて頂きました機会に、出直しについてお話させて頂きます。
しばらくお付き合いください。

柏手

先日、大学時代の親友から8年ぶりに電話がかかってきました。
8年前、教祖130年祭のちょうど1年前、立教178年1月26日、ご本部春季大祭の日に初席を運んでくれたのをきっかけにして、連絡が途絶えてしまった方でした。

教えを伝えるのが、布教師の使命。その最たる成果が別席。と考えていた当時、大学卒業後も10年にわたって密に連絡をとり続けていた彼に初席を運んで貰えたことは、とても嬉しいことでした。しかも、130年祭のピッタリ1年前。こんなに有難いことは無いと思っていましたが、何かが嫌だったんでしょう。
これをきっかけにして、誕生日おめでとうというメッセージを送っても、そっけない返事が返ってくるだけ。他の連絡は全て既読スルーという状態になり、私は、十数年来の親友を無くしたツラさと、布教師としての使命の狭間で、引き裂かれる心持ちで過ごしていました。

さて、そんな彼からの8年ぶりの電話は、彼が勤めている高齢者入所施設の利用者さんで、天理教の教会の前会長だった方が亡くなり、お悔やみに行きたい職員がたくさん居るけれども、天理教式の作法が解らないから教えてくれというものでした。

入所施設の利用者さんが亡くなった時、その職員さんがこぞってお悔やみに行きたいなんことがあるのかと、とてもビックリしました。
彼曰く、職員から非常に慕われていた利用者さんだったそうです。
その人柄が、にをいがけになっていたのだろうと、見ず知らずの方ですが、非常に感銘を受けました。

彼には、天理教では人の死を出直しと言って、生まれ変わりがあること。だから「ご冥福」という言葉は避けて、「御愁傷様です」などのお悔やみの言葉を使えば、あとは何も気にしなくて良いよと伝えました。

また、別の話です。
SNSで少しやり取りしていた精神疾患のある方が、ちょうど1年前、去年の4月に、稽留流産されました。
何度かメッセージのやり取りをしていましたが、先月末、待望の第1子を無事、ご出産されました。
その際に下さったメッセージです。


この方には、私が天理教の信仰をしていることは伝えていませんし、出直しの教理もお伝えしていません。
ですが、日々の私の投稿が少し伝わっていたのでしょうか、生まれ変わり、たすけ合いという考え方を包み込むような、温かいメッセージを下さいました。

さて、このように、出直しという教えは、多くの方にとって、救いであります。

親など、慕っていた方が亡くなっても、いつか生まれ変わってくると思えば、希望を持てます。
我が子を亡くしてすらも、前向きに捉え直すことができます。

しかしながら、いつもいつも、そうという訳ではないと思います。

この数年、自死遺族の方々とたくさん繋がってきました。
ひとくちに自死遺族と言っても、その立場は、老若男女様々です。
しかし私が特に多く繋がったのは、その中でも、20代の息子さんを亡くされたお母さん達でした。

この方々にとって、生まれ変わりというのは、直接的には、救いになりません。
ご年齢的に、自分が出産することはありません。
他にきょうだいが居なければ、孫として生まれることを期待することもできません。
どこか遠くの親戚に生まれるとして、自分が直接接することを期待する気持ちにもなれないでしょう。

後追い、という言葉を何度聴いたか解りません。

私は、人としても、天理教の教理を学んだ者としても、ただただ無力で、相槌を打ちながら聴く以外に、何もできませんでした。

昨年、交通事故で五十代で出直された、ある教会の会長さん。その奥様と先月末にお話しましたが、この方の口からも、「後追い」という言葉がありました。

配偶者や成人した子どもを亡くされた時、出直しという教えが救いにならない、そんな場面に度々出くわしています。

では、出直しという理を教えて下さった教祖は、どんな状況であったか。

夫の善兵衛様は、教祖56歳の時、66歳で出直されています。
また、教祖は出産を6度されていますが、うちお二人は幼くして出直され、あとの4人の方々のうち、教祖が現身を隠される時まで生きておられたのはたった1人、他は皆様、先立たれています。
生きておられたお一人も、当時の言葉で言う、「出戻り」でしたし、いわゆるお嫁さんも32歳という若さで出直されています。

秀司 61歳 教祖84歳
おまさ
おやす 3歳 教祖33歳
おはる 42歳 教祖75歳
おつね 2歳 教祖36歳
こかん 39歳 教祖78歳
まつゑ 32歳 教祖85歳

たまへ 10歳頃 教祖現身を隠される

お側におられたのは、10歳にもならない孫娘1人。
直接の身内は、10歳の孫娘と、九十歳の老祖母。そのたった2人。
この状況で、日々に希望を持って生きることすら、常人には困難なように思います。
ましてや、出直しという理に、救い、希望を感じ、人に伝えるなど、筆舌に尽くしがたい、凄まじいものを感じます。

なぜ教祖には、そんなことができたのか。
それは、神様の時間と、人間の感覚の違いを、深く深く、ご存知だったからだと思います。

人間は、目の前の人が亡くなったら、また早く会いたいと願います。数十年どころか、一週間先すら、遠い未来に感じてしまいます。
しかし、神様の時間は、数十年、数百年、数億年をも抱き締める時間軸です。

今世では親子や夫婦であっても、前生前々生では、どんな組み合わせであったか、それこそ、神様の采配の世界で、一番良い関係性を、繰り返し繰り返し、辿ってきたハズです。

それを深く深く理解されていたからこそ、常人なら不安と孤独感に押し潰されそうな状況の中で、出直しという理をお伝え下されたのだと思います。

教祖伝逸話編を読みますと、教祖が、幼い子どもに対して、

「来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通りに来て下されて」
とか
「お蔭で、見せてもろうて来ました」
などと、砕けた敬語で話しかけられるセリフが、何度か出て来ます。

稿本天理教教祖伝逸話篇一二一 いとに着物を
「一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通り来て下されて。」
教祖(おやさま)は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁寧に仰せになったのである。
「お蔭で、見せてもろうて来ました。」

教祖にとって、接する人は皆、前生前々生で、お世話になった人、恩人と解っておられたからこそ、こんな接し方ができたののだと思います。

実際、上田ナライト先生が入信される際、
「五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで」
と、途方もない時間感覚のお言葉を、当時14歳の少女だったナライト先生にかけておられます。
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇四八 待ってた、待ってた https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/187721603.html

話は、冒頭にご紹介した、私の親友が接した、ある教会の前会長様に戻ります。
この方はきっと、身近に接する若い方々は全て、自分の前生前々生の恩人だと思って接しておられたんだと思います。
それがひながたを辿ることであり、かしものかりもの、出直しの教えを信じきっておられたからこそ、できたことだと思います。

そんな通り方こそが、一番のにをいがけであり、生涯いち布教師、生涯いちようぼくとしての御手本なんだなぁと、感じさせて頂きました。

さて、今月、4月という月は、日本では新年度。進学進級就職など、子ども、若者にとって、栄転の季節です。

身近に接する、自分より若い人すべてに対して、前生前々生の恩人であるという自覚を強く持って、敬愛の心で接して行きたいと思います。

身の処余程大層大望の理である。生まれ更わり出更わり、この理を聞き分けよ。世上は皆神の子供である。難儀不自由さそうという神は無い。聞き分けよ。(明治二十四年四月二十八日 井川甚助四十二才身上願(越前国奥麻生村第百七十五号講元))

ご清聴有り難うございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇一二一 いとに着物を https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/269045018.html
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇四八 待ってた、待ってた https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/187721603.html
天理教勉強blog: おさしづ補遺(明治二十四年)(公刊おさしづ第七巻より)その1 https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431844268.html


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2023年03月08日

おさしづに見る教会像・結論

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論





結論
今まで述べてきたことによって、信仰者の集団たる天理教の教会は、自然に成立した「講」の連続的に発展した存在でもなければ、人間の歴史的決断によって成立し存続するものでもないと思われる。そうではなくて、教祖がその現身を隠されたところに教会形成の基礎があり、根本的な資力がある。
明治二十年陰暦正月二十六日、教祖が現身を隠されたのは、たすけ一条の道の成人を促される親心にあった事は今更申す迄もないが、その具体的な姿となって現れてきたのが、教会の設置であった。この意味に於て、たすけ一条のため二十五年の命を縮めて、身を隠された、教祖の現身にかわるものこそ教会と言えるのではないだろうか。
ここに、天理教教義学に於て、又、天理教の信仰上に於ても教会論が不可欠の問題となる。すなわち、教会が教祖の現身を賭けて、設置されたものであり、親神の人類救済の積極的意志の働きによるものである故に、教会論は教祖論から必然的に発生するものとなるからである。
そして、存命の教祖の霊的活動のもとに、信仰者がここかしこで、たすけ一条に集まるとき、可視的な天理教会が、ここかしこで成立する。不可視的なものという概念を、我々が教会に適用する事は、最も適当とは言えない(1)。我々は皆、そういう概念によって、何か「プラトン的国家(2)」やユートピア(3)の方向に転落してしまうという傾向を、回避しなければならない。「おさしづ」に於ては、不可視的な教会を述べてはいないと考える。
それは、この地上に現実に存在する教会、すなわち、ここで、この場所で、この可視的な集合に於て、親神の働きが起こる事を信ずるという意味である(4)。しかし、それによって、何か被造物の神化が意図されているのではない。我我は教会を対象として信ずるのではない。我々は、ただ、この教会に於て、親神の働きが、親神の救済が具体的な出来事となるということを信ずるということを意味するのである。
そして、その現実存在としての天理教教会の使命は、親神の救済が具体化されるべく、神一条の理に徹し、人々を親神に導き、その救済にあずからせる為の、たすけ一条、すなわち、「つとめの勤修(5)」と「布教伝道(6)」の具体的活動にあると思われる。教会は、ただ、参詣者を迎えるための殿堂ではなく、あるいは、社会的設備として自己を形成してきたのではない。ひとえに、「つとめ」の場、「伝道」の拠点として成り立ったものである。親神の思召しは、たすけ一条の道を拡張するために、教会的集団を生み出したと思われるのである。それゆえ、教会の実存は、第一義的には「つとめの勤修」と「伝道活動」の要請として必然化される。しかも、教会はその伝道活動によって、ただ自己集団の拡張と、信徒獲得を図っているのではなく、単純率直に、総ての人々の霊性の救いを目指す以上は、その仕事の範囲は、固有の意義においてただ一つである。それはあくまでも、親神の救済の伝達以外のなにものでもないのである。教会論は、ここで当然布教論へと発展してゆく。
ここまで論を進めてくると、信仰的社会集団としての各種の具体的問題が生ずる。それは、教会運営論、社会思想に対する教会及び教人の立場の問題、教会規則・教会法規の問題、儀礼・儀式の問題、説教学、カテキズム(問答法)の問題、教会建築、宗教美術等の問題と、極めて多種多様の課題(7)が包含せられる。又積極的なる実践の部面として、伝道に関する研究が十分に行わなければならない。これらの研究が重ねられ、そこに教会論が完成されることを期待する。
そのためには、常に、現実の教会生活に目を向け、事あるごとに、そのつど、原典(みかぐらうた・おふでさき・おさしづ)へ立ち返る努力を怠ってはならないであろう。


(1) 深谷忠政著「天理教の教会観」『宗教文化研究所報』12号27頁に於て、応法の理として許された教会を可視的教会と言い、「その可視的教会の基底に不可視的教会を認めることであり、不可視的教会が歴史的現実にふれ可視的となるということを意味するのである」。と述べているが、私は、親神の意図によって具体的に設置された教会は、現実存在であって、可視的教会のなかに、前述の外的・内的の二つの要素を備えていると考える。
(2) プラトンは、その超感覚的な観念論から「国家編」を著わし、プラトン自らの国家思想とともに、そのイデア説と霊魂観を述べている。(『世界の大思想』巻1 河出書房参照)。
(3) トマス・モーアの作品に基づく実現の可能性のない想像上の理想的な社会、理想郷。
(4) ここに、無教会論は本教の場合に成り立たないと思うのである。即ち、教会が教祖の身上を賭けて、親神の意志のまにまに実現され、具体的に設置されたのであり、救済と教会とは切っても切れぬ関係にあるのである。
(5) 「かぐらづとめ」の意義は、中山正善著『ひとことはなし』その三、続その二に顕著であるので参照されたい。しかし、地方教会の「つとめ」の意義は、今だ十分には述べられていない。今後の課題と言えよう。
(6) 布教伝道の定義は、明確でないが、「人々を親神に導き、その救いにあずからせること」と考える。
(7) 諸井慶徳著「天理教神学序章」『道を求めて』52〜53頁参照。

*参考文献はそのつど記載してきたが、記載以外のもので、本論作成上参考にした資料のうち主だったものを列挙しておく。
主査室編『おさしづ抄一、二、三』 道友社 昭26〜27
橋本武著『神のてびきとしてのおさしづ』 道友社 昭30
橋本武著『おさしづを拝す上・中・下の一』 道友社 昭42〜45
桝井孝四郎著『おさしづの手引(全2)』 道友社 昭42〜43
山本久二夫・中島秀夫箸『おさしづ研究(全4)』 道友社 昭43〜44H
小野靖彦著「教会組織の研究」『道の友』 大9・10
小野靖彦著「教会の意義とその活動」『道の友』 大10・5
植田英蔵著「教会の理一〜四」『みちのとも』 昭25・11〜26・3
斉藤辰雄著「教会史の時代区分について」『天理教学研究』 8号昭29
柴田正一著「一般教会の制度の変遷」『みちのとも』 昭30・3
諸井慶五郎著「教会の意義と使命」『みちのとも』 昭31・6
土佐元著「教会について」『みちのとも』 昭31・9
田辺教一著「教会長について」『みちのとも』 昭33-10
中西昭明著「教会の理」『あらきとうりょう』43号 昭36
冨松義晴著「教会名称の理」『みちのとも』 昭42・2
中山正善著「教理の体系と信仰の様態」『やまと文化』47号 昭43

× × ×

カール・バルト著 井上・加藤訳『カール・バルト著作集10』 新教出版社 昭43
ヘルマン・ザッセ著 徳善義和訳『み言に立つ教会』 聖文舎 昭36
エミール・ブルンナー著 酒枝義旗訳『教会の誤解』 待晨堂書店 昭30
エドアード・シュヴアイツァー著 佐竹明訳『新約聖書における教会像』 新教出版社 昭43
カール・バルト著 井上良雄訳『啓示・教会・神学』 新教出版社 昭24
トマス・オデイ著 宗像厳訳『宗教社会学』 至誠堂 昭43
熊野義孝著 『教義学』第三巻 新教出版社 昭40
気賀重躬著 『キリスト教の教義』第一巻 修道社 昭31
山本和著 『現代教会論』 日本基督教団出版部 昭41
土肥昭夫著 『内村鑑三』 日本基督教団出版部 昭37

〈昭和四五年度本科卒〉
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おさしづに見る教会像・第四章 教会の主要素と意義

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論




第四章 教会の主要素と意義

 教会の意義を「おさしづ」を通して見る時、膨大な「おさしづ」を解明してゆく一つの方法がある。それは「おさしづ」に表記された「教会」と言う語句を手がかりとして、取り扱っていく仕方である(1)。
 「おさしづ」に「教会」という語句が用いられていること、およそ五十二件、九十一回に及んでいる。その内訳けは、天理教会6回・教会42回・教会の理3回・教会事情3回・教会普請1回・教会規約1回・教会本部1回・分教会19回・支教会15回である。
 これらの語句の出て来るおさしづを、表記すると付表Iのようになる(2)。
 これらの「おさしづ」を検討すると、次のように分類できる
A 全体的包括的な意味での教会。
B 教会本部。
C 地方教会。
D その他(建物や一般的意味での教会)。
この内Dについては、本論の必要とする所でないので割愛する(3)。
A・B・C各々の用語例について見るならば、教会の主要素は明瞭となるであろう。
それらの主要素を鍵として、教会の意義を考えていきたいと思うのである。

(付表1)
おさしづに見る教会像・第四章付表1.png

A

 先ず、全体的包括的な意味での教会であるが、それらの記載されているおさしづを列挙すると、(おさしづの頭の数字は付表I参照)
〔1〕明治二十二年一月十五日 本席御障りに付再度伺(4)
〔2〕明治二十二年四月十八日 刻限御話
〔4〕明治二十三年四月十八日 本席御障りにつき御願
〔7〕明治二十三年七月七日 前おさしづに基き願(5)
〔11〕明治二十四年七月二十三日 本席身上御障りにつき御願
〔12〕明治二十五年一月十三日 前夜おさしづに基き本席一条の件願
〔39〕明治三十一年十月一日 前日刻のおさしづに付、本部員々々々事情押して願
〔44〕明治三十二年五月三十日 五月二十日本局大祭に付教長御上京に相成り大祭仕舞いし後、管長稲葉正善及び野田幹事より教長に向い天理教会の従来本局のため尽力の廉により、目下の時機として一派独立の恩命ありしに付、帰部の上教長心得として事情詳しく申し上げ御願(上京随行員清水与之助、永尾楢次郎)
である。
 これらのおさしづを検討してゆくと、全体的包括的な意味での教会が、一つのおさしづの中に、同時に全く相反する二つの要素を持っている事がうかがえる。
 それは、まず第一に
〔2〕さあ/\天理教会やと言うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸の始め出し。
〔4〕教会事情。又一つの万事取り扱い事情は、世上一つの事情を以て一つ通る。
〔7〕第一道理上運んで置かねばならん。この理取り損いするからどんならん。この道から教会はあろうまい。
〔11〕人気々々、世界々々、誰々天理教会には押し手は無い。事情は皆世界で集まりたる処。
〔12〕教会々々と言うて居るのは、世上一寸始め掛けた道。
〔39〕教会の理、神一条の理とは言えん。世界の理。
〔44〕まあ一つ教会と言うて、順序世上世界の理に許し置いたる処……始め掛けという、越すに越せんから世上の理として許したる処。
と言う部分であり、天理教と言うのは「応法世界の道」であり、「世上世界の理」に許されたものであると述べられている。この事は「神一条とは言えん。世界の理」であって「応法」のものなのである。では、「応法の理」とは如何なるものであるのか。
 応法というは、どういう事と思うやろ。この道という元々願うてどうするのやない、頼んでするのやない、と、古い諭にもしてある。成らん処、余儀無くほんの腰掛けという理に許したる。これから思やんすれば、応法という理は分かるやろう。(明治32・7・7)
と言われる事からも、これは願い出てどうこうしてくれと言うものでなく、世上世界から自然と出来てくるもので、対社会的な意から、余儀なく、一時的過渡的なものとして許されるものであると考えられる。故にこれを外的要素(6)と考えるのである。
 次に、
〔2〕神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと言うて口説き口説き詰めたる。
〔4〕内々事情は、人間心の道とは更に何かの事情を持たずして、心胆真実の理を教会事情。
〔11〕これで盛大や/\と思う心が間違う。……だん/\道のためたすけ一条のため通りたら分かるやろう。後々の道を思うてみよ。…神一条より外の道は通れようまい。
〔44〕どうでもこうでも世上の理に結んであるからと言うて、世上の理ばかり用いてはならんで。……尚々元々紋型無き処より始め掛けた一つの理を以て、万事括り方治め方結び方という。……ぢば始めた理というは容易やないで。世上世界の理と一つに成ってはならん。
と言われている部分で、それは「神一条」「たすけ一条」「心胆真実」「ぢば始めた理」と言う言葉で示されている如く、それは世上世界から付けられた「応法の理」とは全く相反するものである。これを内的要素(7)と考えるのである。
 では、何故同一のおさしづの中に、全く相反する意味の事が述べられているのであろうか。その点を前述のおさしづの代表的なものを掲げて考察してみよう。
〔2〕一つのこうのう始め掛けたら、よう聞いて置け。何処にどういう道が始まるとも分からん。さあ/\天理教会やと言うてこちらにも始めだした。応法世界の道、これは一寸の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと言うて口説き口説き詰めたる。さあ/\これよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあるという。
これを検討する時、思い起こされるのが、教会本部設置当時の状況である。それを踏まえてこれを解釈すると、このおさしづは、効能の理を受けたらなよく聞いておけ、どこからどういう道が始まってくるとも分からんで。さあさあ天理教会と言うて応法世界の道として教会を設置したが、これによって一寸始め出したまでで、この事から神一条の道を世界に広めて行くのである。この元一つ、教祖の御苦労からついたこの道は、今一時のものであるとは決して思ってはならない。今までかんろだいが取り払われて残念々々と口説きつめて来たけれども。さあこれから往還道に出て、公然と布教が許されるようになったのであるから、今にぢばの理が世界に伝わり、かんろだいを建てねばならん日が来るで。という親神の意図がうかがえる。
 又、本教の一派独立の出願の時にしても、
〔44〕まあ一つ教会と言うて、順序世上世界の理に許し置いたる処、どうでもこうでも世上の理に結んであるからと言うて、世上の理ばかり用いてはならんで。尋ねる事情は、遅い早いは言わん。世上という、世界の理から順序運んで事情独立という。事情は世界の理に結んでも、尚々元々紋型無き処より始め掛けた一つの理を以て、万事括り方治め方結び方という。この理一つが道の理である程に。始め掛けという、越すに越せんから世上の理として許したる処、……ぢば始めた理というは容易やないで。世上世界の理と一つに成ってはならん。治め方は日々諭する理にある程に。
と仰せられ、独立運動開始の当初に、神一条の道の理と、世上世界の理との相入れない相違を述べ、その軽重を「事情は世界の理に結んでも、尚々元々紋型無き処より始め掛けた一つの理を以て、万事括り方治め方結び方という。この理一つが道の理である程に」と、本末の順序を戒められている。
 この事から、全体的包括的な意味での天理教会は、世界人類の救済を急ぐ親神の意図的配慮から「世界の処こうして居られん。同じ理や、連れて通ろう」(明治21・3・9)とて、対社会的な面で応法という世上世界の道をとって設置されたと思われる要素と(これを外的要素と考えるのであるが)、その内面に込められた、世界人類の救済の為のたすけ一条の道と、神一条の理の伝達と、人類の究極の目的たる陽気ぐらしの世界建設への親神の真意とを、より早く、より広く知らしめようとて設置されたと思われる要素(内的要素)の両面の要素を備えていると考えられるのである。
 しかしながら、外的要素を全く排除されようとするのではなく、あくまでも応法の理としての外的要素の中で、本来的な救済活動を進めようと言う親神の意図が存していると推測されるのである(8)。
 そして、この社会での立場、教会組織を通して積極的に親神の救済活動の発展拡張を図られつつ、教会の建物や、教会の維持運営とかいろいろの社会的評価に重きをおこうとする傾向に流れやすい教会組織上の誤謬を戒められ、世俗的な制約や誤謬に動かされず、その中で「たすけ一条」に徹し、元々紋型ない処より始められた「神一条」の理をもって治めていくよう、又「ぢば」の理を立て、陽気ぐらし世界建設に邁進せよと教示されていると思われる。

B

 次に、教会本部としての教会であるが、それらの記載されているおさしづを列挙すると、
〔23〕明治二十八年五月十九日陸軍仰兵部より、軍資献納に付明細書差し出す儀通知有之に付、如何致して宜しきや願
前以て献金。誰名前にして、名前無くしては出せず、教会は一つの元として、理を出した中には、蔭でなあ蔭でなあ。 疑い心というは、世界でいろ/\細こうして、一つの理を運ぶがよかろう。
〔28〕明治二十九年三月二十四日刻限(教祖十年祭の後にて別席四五千人程もあり本席五六百人もある時、七日間本席休みになりし時の事情)
ロというは二つも三つも無い。早うにも言うたる。一寸掛かりに教会という。あちらにも本部や、こちらにも本部や本部や。偽や/\、本部や/\と言うたる。なれど、これも今ではよう/\一つの理に集まりたるやろ。
〔29〕明治二十九年四月九日増野いと,身上居所の願
同じ何人中、この教会やしき中、十人居れば十人、二十人居れば二十人、三十人居れば三十人、どんな者も区域隔て無い隔て無い/\。こうもして貰わにゃならん/\。一名放って置く事出けん。七十五人の中の一人よう聞き分け。
〔33〕明治三十一年三月二十八日前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願
女であれど、公然思うての気休みの理と言えん。教会本部役員という理は、これは一寸なろうまい/\。なれど、同様の心は内々の心にある。めんめんの胸にあろう(9)。
である。
これら教会本部を表わしているおさしづにも、前述のAと同じように、外的要素と、内的要素とを指していると思われる要素がある。
先ず、外的要素を指す部分は、
〔28〕一寸掛かりに教会という。あちらにも本部や、こちらにも本部や/\。偽や/\。
と言う如く、教会本部が設置された当初、あちらが本部なのか、やれ仮の本部や、真の本部などと言っていた事を述べ、「ぢば一つの理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて」(明治21・3・9)応法の道を歩まれた事を示している部分である。
次に、内的要素を指す部分は、
〔23〕教会は一つの元として、理を出した中には
〔29〕この教会やしき中
〔33〕教会本部役員
と言われている部分で、教会本部は、後述する地方教会の元と言われていると共に、「教会やしき中」「教会本部」と表記されている如く、おさしづに於て教会本部の理を述べられている場合、「教会」と言う言葉を単独で使うよりも、「やしき」「本部」の言葉で関連づけられている事がうかがえる(10)。
 そこで、教会本部の内的要素を、この「やしき」「本部」の語を手掛りとして、考察すると、次のおさしづが伺える。
  明治二十四年一月八日 井筒梅治郎息女二人同じ障りに付願
古い者は親ともいう。親の理が治まらん。どういうものである。古い程難しい。本部々々、本部々々の理を聞き分けたら、長らく年限の間、この年限から一つ所/\始め掛け。一っち古い所、をやの理失うにも失わん。このぢばは本部や。古きをやなれば十分の理が無ければならん。
 このおさしづから「ぢば本部」やと言われている如く、又明治二十一年の教会設置運動の際にも、ぢばを離れてはならないとて、早急にぢばに移転するように指図された神の意図が明瞭となると共に、「教会本部の理」は、そのまま「ぢばの理」に移行させても何らさしつかえないと思われる。
 「ぢばの理」は、
  かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを  九-19
  にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑてをくぞや  十七-9
  このたいがみなそろいさいしたならば どんな事をがかなハんでなし  十七-10
  それゆへにかんろふたいをはじめたわ ほんもとなるのところなるのや  十七-36
  こんな事はじめかけるとゆうのもな せかいぢううをたすけたいから  十七-37
と、「おふでさき」に示されている如く、この処に於て天理王命が世界人類を創造された源始地であり、又この因縁により旬刻限の到来をまちて、親神が教祖中山みきの口を通してこの世に具現された地である。従って「ぢば」は、世界人類を宿し込まれた証拠に、かんろだいがすえられるべき所であって、世界一列救済の根源であると教えられている。言いかえるならば、ぢばは世界人類創造の源始地であって、同時に、世界人類救済の源拠点である事を顕示されているのである。
 かように、ぢばは本教信仰の中心であり、ぢばをはなれては道の信仰は成立せず「ぢばに天理王命の神名を授ける」と仰せられ、親神の久遠にとどまり給う所でもある。
 それに、このぢばは、
  ひのもとしよやしきのつとめの ばしよハよのもとや  三下り目-一
と「みかぐらうた」に教えられているように、「かぐらづとめ」を勤修する「つとめ場所」でもあり、この世界人類救済のかぐらづとめは、又、ぢば以外の所では許されていないのである(11)
 次に「やしきの理」であるが、これも当然ぢばの理を包括するものである事はまぬがれないが、それらのおさしづを挙げると、
 鏡やしきから打ち出す言葉は、天の言葉である程に。理を恐れず、あんな事言う、あんな事と思えば、あんな事になる。めん/\身上もあんな事になる程に/\。この一つの理を諭し置こう/\。(明治32・2・2)
と仰せられるように、教会本部は教義の発現の地であると考えられる。又、
 鏡やしき濁ってあってどうもならん。鏡やしきは四方正面ともいう。少しぐらいこんな事ぐらいという理はむさくろしい。妬み合いという理が見て居られん。これで掃除は仕舞。(明治24・1・29)
 やしきの中というは、澄んで/\澄み切らねばならん。このやしきは、一人力で出けた道やない、道やあろまい。艱難から組み上げたる道。よう聞き分け。(明治33・10・16)
と示されている事からも、教会本部は、澄みきったきれいなやしきとして、人々の心は常に浄化されていなければならないのである。
 そして、又、この鏡やしきの理に、存命の教祖が、日々見ぬき見通しの理をもって、御守護下され、たすけ一条のさづけの理を授けて下さるのである。
 さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日々の道を見て思やんしてくれねばならん。(明治23・3・17)
以上の事から、
 ぢば証拠人間始めた一つの事情、かんろうだい一つの証拠雛形を拵え。今一時影だけのものと言うて居るだけでならんから、万分の一を以って、世界ほんの一寸細道を付け掛けた。(明治30・7・14)
と、おさしづに示されているように、教会本部と言うものは、外的要素としては応法世界の理に許されたものでありながら、内的要素としては、人間の誕生と救済の根源としての「ぢば」を離れては存続しないものであると教えられている。そして、それはぢば一つに限られ、存命の教祖のおしずまり給う鋭やしきとしての澄みきった理の中に、教義の発現の地として、又、かんろだいの建設せられる所であり、人類救済の根源としてのつとめ場所でもあると考える。

C

 最後に、地方教会であるが、これらを指すおさしづは極めて多く、ここに列挙するのはひかえ、日付だけを記すと、左記の如くである。
〔3〕明治二十二年八月五日
〔6〕明治二十三年六月二十一日
〔8〕明治二十四年二月十七日
〔9〕明治二十四年四月十八日
〔10〕明治二十四年五月九日
〔13〕明治二十五年七月二十五日
〔14〕明治二十五年七月二十七日
〔15〕明治二十五年八月三十一日
〔18〕明治二十六年八月四日
〔19〕明治二十七年九月二十六日
〔20〕明治二十七年十二月十四日
〔21〕明治二十八年一月十四日
〔22〕明治二十八年三月四日
〔26〕明治二十八年十月十九日
〔27〕明治二十九年二月十八日
〔30〕明治三十年七月十四日
〔31〕明治三十年八月二日
〔32〕明治三十年十二月三十日
〔33〕明治三十一年三月二十八日
〔35〕明治三十一年四月十三日
〔36〕明治三十一年六月十三日
〔37〕明治三十一年六月二十日
〔38〕明治三十一年七月二十五日
〔40〕明治三十一年十一月四日
〔41〕明治三十一年十一月十三日
〔42〕明治三十二年二月二十四日
〔43〕明治三十二年五月一日
〔46〕明治三十二年十一月十五日
〔47〕明治三十三年五月十九日
〔48〕明治三十三年十月四日
〔49〕明治三十三年十月十六日
〔50〕明治三十三年十月三十一日
〔51〕明治三十九年十二月十三日
 これらのおさしづからもやはり、以前と同じく、外的要素と、内的要素に分けられる。(12)
 外的要素を示すのは、
〔8〕今仮の所、仮の場所教会や/\世上の理を治め難くい。通れんから治めてある。銘々どうがよかろう、心祀り、心祀りの事情に治めにゃならん。
〔14〕一時十分と思うであろ。世上とも言うであろ。なれど、教会という分かれというは……。
〔18〕さあ/\所には皆これ一寸々々の仮印を置いてある。それより始め掛けて皆心だけ尽くさにゃならん。一寸仮印置いてある。
〔30〕天理教会と言うて、国々所々印を下ろしたる。年限経つばかりでは楽しみ無いから、一時道を始め付けたる。神一条の道からは、万分の一の道を付けたのやで。
と言われている部分であり、ここに於ても、教会というものは、世上の理からやむなく設置された応法のものであると言われている。
 しかしながら、応法の理ばかりではなく、そこには必然的に内的要素としての、神一条の理という要素は決して失われてはいないと述べられているのである。
 その内的要素とは、地方教会に於ける場合如何なるものなのであろうか、それは次の三つの点をあげる事が出来る。
 先ず第一に、
〔3〕実を聞き分け尋ねるから聞かそ。今一時どちら分教会支教会、前々の理には、元をや一つの改心出来れば、をやの理さえ守るなら一つの理でする。
〔9〕元一つの理運ぶ処は十分の理受け取り、今一時どういう事情と思う処、元々成らん処を治めた処、又一つは分教会支教会という二つの理と思えども、元は一つ、初めは一つの理である。……支教会と言えば一時の道の治め方によって支教会とも言う。なれど一つの理は分教会と言う。一つの理深きの理と言う。どちらも若い、こちらも若い。どちらもをやという理。をやの理を以て忘れてはならん。何よの理も治まる。
〔13〕支教会や支教会、分教会を題として、支教会出張所と言う。つゝまる処、一人とも言うであろ。
〔15〕一人二人の理で建て、田の中へしょんぼりと建て、席の十分見る処一つの理である。国々それ/\事情、教会や支教会や、派出所や/\日々尋ね掛けて、その中に一つのしんどと言うてあろ。一事万事、一つよう聞き分けくれ。世上国々一つ治まり、一つの理であろ。ぢばへ立ち帰り、一つの事情。
〔22〕さあ/\それはどうも別段という理下ろし難くい。めん/\こうしてやれば先々深くいつ/\まで、一寸一寸長く引い張る者もある。そこで分けてやる者に、心に委せにゃなろまい。
 分教会々々々幾つ理ある。直轄という理ある。分けてやれば同じ理。皆心という理ある。そこで談じやいの上定めてくれ。こちらからどうしてやると言うた処が、心という理あるによって。
〔38〕さあ/\まあ分教会と言えば、幾分教会も同じ一つの順序。ぢばという。多分の分教会や。信徒一つ元から信徒の理を筆取りて寄せ/\、一つ内も外も隔て無い理。修理肥はどういうもの。世界から修理肥を出すか。修理肥を出すは元にある。
〔42〕あちらにも分教会、こちらにも支教会、出張所、布教所、順序理という。一つ元ありて先々というは、皆集いて/\今の日。
〔49〕人間勝手々々こらならん。もう行く所あろか。思案してみよ。親分教会何ぼあるぞ/\。支教会出張所、一つ派出所という。親という。親兄という、何時でも仕掛けたる。
〔51〕本部という理あって他に教会の理同じ息一つのもの。この一つの心治めにや天が働き出来ん。
と言われる如く、地方教会というものは、ぢばの理・をやの理を基礎として、許されるものであり、ぢばの理を戴いてこそ、そこに教会の生命があり、ぢばからはなれては教会の理は存在しないのである。言いかえれば、教会本部は木の元であり根であって、地方教会は、その幹であり、校なのである。故に本教に於て、ぢばの理を戴かない、独立した単独の地方教会と一言うものは存しないのである。そして、その心というものは常に、世界人類放済の根源としてのぢば一つの理に、又紋型ない処から世界人類救済の為に御苦労せられ、今なお存命のまま、元のやしきに居ます教祖御一人に心を結び、ぢばから距離的には雌れていても、その心に隔りがあってはならないと教えられている。
 第二に、
〔10〕心一つ運ぶ。心一つ教会重々運ぶ。一度に分かろまい。どんなもの、こんなもの、たすけ一条旬々の理と理がある。
〔33〕たすけ/\という、皆たすけ一つの理から出たものであるあちらでもこちらでも、所々名称という、教会という/\一時に出けたものやない。元暗がり/\から通りて居れば、苦労したのも同じ事。
〔36〕今の教会は小さいものや。細こい小石は教会の役員一同、さづけ人衆一同、潔う降るというは、一同に日々の働き潔う潔う/\。楽しみやで/\/\。
とて、教会というものは、たすけ一条の理から設置されたものであり、その構成員もおのずと、おたすけ人による事を仰せられている。
 それは、前述の教会本部を人類放済の根源とするならば、地方教会というものは、その理を岐けられた、すなわち、救済の地方的な親神の働き場所であり、只形さえ出来ればよいとか、金や人によってつくるのでもなく、元くらがりの道中から、苦労艱難の年限をつんでこそ、そこに教会の理があるのである。
〔41〕どれだけ頼り、一人ぐらい一人の道理で出来るものやない。中年限相応の理から教会と一言うであろう。
即ち、教会は神一条の理をはこび、たすけ一条の仕事場として、たすけ一条につとめきらして頂かねばならぬのであって教会の経営とか、いろい方法手段をもって、人間一条の道を通るような事があってはならないのであると教示されていると思われる。
 第三に、地方教会と言うものは、次のおさしづが示すように、「名称の理」と言うものが下ろされているのである。
〔31〕あちらにも信徒こちらにも信徒と言う。教会や出張所と言う。名称下りたる理、何処から出たるか。これ、聞き分けたら分かる。
〔33〕所々名称という、教会という/\。
〔43〕あちらでもこちらでも治め方や。教会名称印、これも一時に出けたものやない。
〔50〕国々名称の理を下ろしてある。教会々々、一名称々々々、芯という者あろう。
 では、この「名称の理」とは如何なる事を表すのであろうか。「名称」という言葉は、おさしづの中で、三十三件、四十三会用いられている。(13)そして、それは、(おさしづの頭のイロハは、註13、参照)
〔ニ〕国々所々道治め掛けたる。早く一つの理を治めてくれ……名称一つの理を許してある。
〔ト〕道に使う理を聞き分け。所には名称下ろしたる。
〔ク〕皆所々に名称下ろすまでは、容易でなかったなかった/\。
〔フ〕所々名称名を下ろし、だんだんの道も伝えたる。
と示されている如く、「名称」という言葉は、単なる「呼び名」と言う意味を指すにとどまらず、いわんや「名所(14))」との意でもなく、親神の意図によって設置された教会、特に「国々所々」「土地所」に於ける地方教会を指す言葉であると思われる。
 そこで重複するかも知れないが、教会の内的要素というものを、この名称の理から分析してみると、先ず名祢とは、
〔ト〕所には名称下ろしたる。……元という、ぢばというは、世界もう一つと無いもの、思えば思う程深き理。古いもの埋れてあるというは、よう聞き分け。人間の心では分からん。
〔ネ〕この道は外に無いで。さああちらもこちらも名称という。元一人から始め掛けたる道である。
〔ノ〕国々所々名称々々、取締あろ。何よこうと思えばこう、こうと思えばその一つの元から、よく改めにゃならん。
という言葉でもって、名称というものは、国々所々に名を下ろされたものであって、その元というのは、ぢばから許されるものであり、「一人歩き出けると思うてはならん」(明治33・9・14)とて、ぢばを離れて単独のものとして存するものではないと言うことを教示されている。そして、
〔リ〕国々それ/\名称々々の理を下ろし、言えば道の辻々ともいう。十分の理ともいう。
〔ル〕先々名称あちらこちら、旅をした時に休みするようなもの。
と、「道の辻々」「旅の休所」と言うような言葉で、ぢばを離れた各地方に於ける、その土地所の道標であり、そしてそれは、
〔ツ〕一つ所に何も紋型無き所あるというは、心の理集まる印、たゝ゛これから教祖存命という一つ始めた言葉の理、一条の道より無い。
と仰せられ、全く紋型もない所から難儀苦労してやっと人々の心が寄り集まって出来てきたものであり、救済のをや、ひながたのをやとしての教祖存命の理を心に治め、土地所における「たすけ一条」の拠点となるべき所に於て、許されるものなのである。
〔ヲ〕この元ぢばという、世界々々所々始め、何も一度で始めたんでない。一人から一つ/\始め。先は言わいでも理が分かりある。所々と言うてこの道掛かり、よう思うてみよ。……元という、前一つ、あちらから一人事情、こちらから一人事情、たすけ/\という、皆たすけ一つの理から出たものである。あちらでもこちらでも、所々名称という、教会という/\。一時に出けたものやない。元暗がり/\から通りて居れば、苦労したのも同じ事。
そして、ここに許された名称の理というものは、
〔タ〕さあ所という、前々所に一つ名称始め掛けた事情、年限経てど、これは末代の理。
と言われる如く、末代の理であって、世界応法の道から「余儀無くほんの腰掛けという理に」(明治32・7・7)許されたものではない。その事は次のおさしづが良く表わしている。
明治三十一年四月二十六日 中河部内摂陽支教会却下に付移転事情願(本部の御許し相成り、三四度地方庁不認可に付、この度若江支教会を摂陽支教会の御許し有之、林九右衛門の宅へ移転の相談成りしに付、右摂陽支教会は如何様に致しますか、取り消し下さるか又は後々の心得御座ります故御願)
……そこで二つ一つとは成らん。二つ一つとは成らん。どうでもこうでも下ろした理は立てにゃならん。これよう聞き分け。日が足らん。日が足らんからそういう道理になる。二つ一つ取り消す事出けん。……
押して、摂陽支教会取り消す事出けんという処は分かりまして御座りますが、中河部内にこれまで名称御許し之無き新しき所へいかゝ゛で御座りますか。実は若江支教会は只今の処立つ事出けん故、外方へ移転さして御座りますがと願
さあ/\、所という、変わるという理はどういう理であろう。尋ねる処それは何処へなりとも。無き所なら同じ理。事情は、あちら事情こちら事情話し合いして、こうと言えば許し置いたる処、すっきり取り消して了う事出けん。なれど、所変わる。どうしたらよかろう、そら相談の上運ばにゃならん。
と仰せられ、一度お許し下された名称の理というものは、合併して一つを取消すような事も出来ない。たとえ今は有名無実のものであっても、その名称の理を立てるなら、必ず道は立ってくると仰せられているのである。
そして、又、
〔イ〕名称あれば主がある。名称あれば主がある。
とて、名称には、その中心になる者、即ち教会長と言うべき芯があり、その者の心から治めてくれねばならんとて、
〔へ〕義理という顔という理を以て掛かればどうもならん。……神一条の理と人間と/\の理をよう聞き分け。人間の理を病んで神の理を欠いてはならんという。
〔ト〕そも/\から治まらん。一つの芯が元である。芯が狂うから、間違う。間違うから治まらん。
〔リ〕竜頭が濁れば、辻々は一時にどないになるやら知れんで。……人間心の理から世界の曇りとなる。
と仰せられ、名称の芯となる者の精神の有り方を、そして、その心は神一条の理に徹し、人間の理を使つてはならんと教えられる。又、会長の理だけでなく、その構成員たる者についても、
〔イ〕心に安心成って、所にたんのうの事情、たった一つの所から、始まった理が治まる。皆んな一つの心が治まる、……談示一つの処に委す。なれどもたんのうの道、治まるの理はたんのうより無いで。
〔チ〕心に曇り跨がりの理ありてはならん。日々互い/\の心を集めてくれるよう。
〔タ〕所を所、それ/\の心というものは寄って成り立った道中に、どうよこうよの理もある。なれど誠より残る理は無い。残る理は将来末代の種という。
〔ソ〕教会名称印、これも一時に出けたものやない。……あちらこちら、一手一つの理にならんにゃ心が幾筋出て、芽又芽この芽を欠かんよう、一芽数々、道の元随分芽を欠かんよう。芽から実がのる。種という根にある。
とて、皆々の心を一手一つに治め、
〔ナ〕運び合うて繋ぎ合うて、陽気の心治めるなら。
〔フ〕勇む心というは道である。そこで早く皆々心に合わせて満足を与えにゃならん。
とて、単に、一手一つに心を繋ぎ合うにとどまらず、その中には、おのずと陽気に勇みあった心遣いにならなければならないと教えられている。
以上の事から地方教会と言うものは、外的要素としては、応法の理として許されたものであり、内的要素としては、ぢばの理の岐かれた所であり、親神の救済活動の場として、神一条、たすけ一条の活動の拠点である。即ち、人々を親神に導き、その救済にあずからせる「つとめ」と「布教伝道」の場であると思われる。そこに於ては、教会長を芯として、寄り集まる多くの人々が、神一条の理に徹し、たすけ一条にはげみ、一手一つに心を繋ぎ合う中に、陽気に勇みあい地方に於ける「陽気ぐらし」の道場としてのひながたの場に許される末代の理としての名称の理(15)があるのである。
以上の事から、教会の要素というものを整理すると、

(附表U)
おさしづに見る教会像・第四章附表U.jpg

全体的包括的な意味での教会というものは、外的要素としての応法の理と、内的要素としてのたすけ一条・神一条とを通しての陽気ぐらし世界建設を目的とする二面を備えている。そして教会本部にあっても、地方教会にあってもその概要は同様であることは言うまでもないが、付表Uの示す如く、教会本部は根源的・一箇的なものであるのに対し、地方教会は遍在的・具体的な親神の救済活動の場であると思われる。

注(1) この方法は決して万全とは言えないかも知れない。しかし、全く白紙の状態で教会を見る事にもなるし、前述のことから、教会が親神の意志により具体的に設置されている以上、その要素を取り出すには便利であり、単に個々のおさしづを引き出すより包括的に捕えられるのではないか。
本論中でも、おさしづの性絡を曲げないように、出来るだけその割書を手がかりとして、全文を検討し、又随時明確なる教会事情のおさしづも挿入し万全を期したい。
(2) 以後、引用の際には、おさしづの日付を記さずに、この表の頭の数字を用いる。
(3) これらの、おさしづをあげると、
〔5〕明治二十三年四月二十日 刻限御話
三年四年後なる道は通り難くい道であったであろう。通りたる道は道理上、道は一つに寄せてある。教会は多分にある。遠くから始まりた道である。
〔7〕明治二十三年七月七日 前おさしづに基き願
規約々々という、教会規約一時速び切って出したる限りは治めにゃ。その道変えて皆めん/\で、めん/\に抜けられぬように道を拵える。
〔16〕明治二十六年四月二十七日 昨日本附身上御障りは如何なる事にや願
さあ/\分かろまい/\。一席三点と諭したる。これが皆同し一つ理、一点二点三点五点一つ理。一点と言う、数々三点五点と言う。教会は教会、これ一点。
〔17〕明治二十六年五月十六日 日々本席に教会の願段々つかえます故、御許し相成りた上は地方庁へ出願なり御勤の鳴物なり御紋の処は添物のように心得ますから、これを神様へ願わずして運ばして下されますや、是非御願い申さずば成りませんや願
一戸普請と、教会普請、末代治まる理と、大変低き理と、高き理とある。よう聞き分け。何かならんと言わん。運んでこうと言うや治めてやる。
〔24〕明治二十八年八月十日 東分教会の治め方の願
治め居る間は道のため世界のため、ほんに成程現われる。教会の事情判然せん。いかなるも論し、その事情から治まるであろ。
〔25〕明治二十八年九月二十七日 本席御身上腹痛み治まり、又本日右の足痛みに付願
願いしょ、所々治まる。所地所という、これならという、教会地所なら許す。地所買い入れという。よう聞き分け。今の処済んだ。
〔45〕明治三十二年七月二十三日天理教独立願書に添付する教会起源及び沿革、教祖履歴、教義の大要に付願
世上には何教会何派という。それも同じようなもの。それと同じむを持って居てはならん。よう聞き分け。真の道の理というは、めん/\心に治めてくれにゃならん。自然々々薄くなるようでは世界並同様の理になって了う。
〔52〕明治四十年五月三十日午後十時 本席身上又々激しく相成り、刻限の御諭
先の年限今という心になれば、どんな事も出来る。さあ/\教会と言うて建家始め掛けたる。今の在り形のようなもの。ほんの美しい成って、ほんまと言うたらかんろだいはすっきり雨打たしのものや。
以上であり、これらは、一般的名詞としての教会〔5〕〔45〕、教会の建物を示す〔17〕〔25〕〔52〕、その他〔7〕〔16〕〔24〕で、本論の教会の意義との関連がうすいと考えられる。
(4) これは、包括的な天理教会を指してはいるが、天理教会と出てくるのみで、具体的な要素を述べてはいないと思われるので以後論述しない。
(5) これは、おさづけの尊い理についておさとし下されたおさしづであり、医者や薬が要らんと言った事はない。医者の手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。神の不思議な守護を知らず、世上ではいろいろに言うから医者にかけ、世上の理も運ぶようにと諭されたものである。
(6) 何故この「応法の理」を外的要素と言うかというと、それは世上世界から自然と出来て来るもので、我々の力でもってどうこうしうるものではなく、親神の意図のもとに、対社会的な要件から成就されるものであると考えるからである。
(7) 「内的要素」と言うのは、親神の積極的意図によって
設置された教会の内面に込められた要素で、前述の「外的要素」とは全く相入れないものであり、対社会と言うよりはむしろ、教会それ自体の有り方にかかわる内的な要素と考えられるからである。
(8) 神一条より外の道は通れようまい。(明治24年・7・23)
どうでもこうでも世上の理に結んであるからと言うて、世上の理ばかり用いてはならんで。(明治32・5・30」
と言われていることからも、もちろん外的要素より内的要素が教会の有り方として、より重要な意義をもつと思われる。
(9) これは、教会本部役員と表記されているが、内容は婦人会の事を述べられているのである。
(10) 実際、教会と言う言葉で表記されている中で、教会本部の要素を述べているのは、ごく少ない。それに代わる言葉は「ぢば」「やしき」「本部」であろう事は、第二章に述べた、教会本部が「ぢば」を離れてはならないと教示された事からも、十分推測しうる事である。
(11) 明治24・2・20のおさしづ参照。
(12) これらのおさしづを全部挙げて論述するのが当然であるが、あまりに数が多く、論が繁雑となるので代表的なものを載せるにとどめざるを得ない事を了解していただきたい。
(13) 「名称」という言葉の出て来るおさしづをあげると。
〔イ〕明治21・10・12 東京講社事件に付伺。
〔ロ〕明治22・5・12 分教会所開筵式に付、これまで本部へ尽力の方は黒衣下附して宜しきや伺。
〔ハ〕明治22・6・30 山名分教会先々説教所設置の願。
〔ニ〕明治27・1・11 刻限御話。
〔ホ〕明治27・6・13 高知部内石浜支教会へ他より邪魔人あるに付願。
〔へ〕明治28・9・15 中河分教会事情願。
〔ト〕明治28・10・11 本席身上願。
〔チ〕明治29・12-18 平野トラにおさしづ。
〔リ〕明治30・2・1 松村吉太郎風邪引き、義孝口中悪しくに付願。
〔ヌ〕明治30・7・14 飯田岩治郎事情に付心得まで願。
〔ル〕明治30・8・2 飯田岩治郎事情に付願。
〔ヲ〕明治31・3・28 前日おさしづにより婦人会の名前付けますものやと願。
〔ワ〕明治31・11・4 増野正兵衛前おさしづより押して、尚身上願。
〔カ〕明治31・11・13 東分教会事情に付願。
〔ヨ〕明治32・2・4 金米糖の御供に付心得まで願。
〔タ〕明治32・2・18 土佐卯之助身上より前のおさしづを申し上げ願。
〔レ〕明治32・4・7 山田作治郎身上願。
〔ソ〕明治32・5・1 梅谷四郎兵衛顔に物出来身上願。
〔ツ〕明治32・10・5 刻限話。
〔ネ〕明治33・2・8 撫養分教会長譲る事情に付願。
〔ナ〕明治33・9・14 本席身上願。
〔ラ〕明治33・10・3 山田太良平身上願。
〔ム〕明治33・10・16 刻限のお話。
〔ウ〕明治33・10・20 高井つねおさしづより、本部員一同打ち揃うて願。
〔ヰ〕明治33・10・31 刻限御話。
〔ノ〕明治34・5・25 昼のおさしづを申し上げし時御話。
〔オ〕明治34・7・15 諸井国三郎腕障りに付願。
〔ク〕明治34・7・28 植田平一郎身上願。
〔ヤ〕明治34・9・16 周東支教会火難後心得の願。
〔マ〕明治34・9・28 永尾よしゑ過日より身上に付願。
〔ケ〕明治35・8・10 十教区取締員先々へ出張許し願。
〔フ〕明治36・5・23 事情願結了後御論。
〔コ〕明治37・12・17 寺田半兵術身上則。
以上である。
以後、引用の際には、おさしづの日付を記さずに、頭のイロハを用いる。
〔14〕 増野鼓雪著「教義研究 教会」『増野鼓雪全集』巻21、162頁によると、「神は教会に対して『めいしょ』と云ふ言葉を使用された。教会とは殆んど云って居られないのである。そこで此の『めいしょ』とは、名前である『名称』のことであるか、或は名高い場所としての『名所』であるか、何れの意味に用いられたものであるかは不明であるが、神本来の思想より云えば、『名所』の『めいしょ』でなくてはならないのである」。と述べているが、おさしづに表現されている「名称」は、「名所」と置き換えるのは好ましくないと考える。
(15) 「名称の理」は従来、「教会名称の理」(『天理教教典』90頁)と言われ、「教会」と並列的に用いられていたが、「名称の理」を検討してゆくと、より限定された意味、即ち、
地方教会の内的要素を指す場合に限られていると思われる。
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おさしづに見る教会像・第三章 地方教会の設置

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論




第三章 地方教会の設置

 明治二十一年十一月二十九日 公認天理教会は設置された。以後、各地方の「講」は、分教会(地方教会)設置へと競い立ち勇み立って、全教的にいよいよたすけ一条の道へ勇往邁進すべき心に燃え立ってくるのである。
 最初にお許しを得たのは、諸井国三郎であった(1)。
 しかし、これにしても最初の出願ではなかった。遠江真明組の講元としての諸井国三郎は、何とか公認を得ようとて、明治十七年十月、大日本天輪教会遠江支会を静岡県庁に出願している(2)。
 そして又、天理教教会本部が東京に於いて公認を得るとすぐ、遠州に於いても教会を設置しようと、明治二十一年五月二十日、分教会設置を伺っているが、
 世界の処、先ず/\銘々又尋ねる事情あるで。尋ねる世界はこれでよい。先ず/\神の道は、先ず/\一年は一年だけ、十分神の道。又々世界でこれ尽せん、先ず/\年々に付きたる処、これは聞いてくれねばならん。又々聞きてくれ。先ず/\処一つの処、一つ事情世界の処は、先ず/\一年経てば、あゝ成程々々。一年々々と経てば、それ委せ置こう。
とて、東京に於いて天理教会本部の公認を得てはいるが、しかし、神の道からすれば、まだ十分だとは言えない。本部がぢばに移転するまで、一年の間待てと言われて許可されていないのである。
 しかし、諸井国三郎は、一年が待ちきれず、再々おさしづを伺っている。
 さあ/\皆々神が抑えて居るのやで。ぢばをちゃんと治めて、それからあちらこちらへも始め出すとの事、今度は生涯末代やで。そこで神が抑えて居たのやと。もう一寸抑え。今度の暫くは、長い事ないで。もう一寸の間、今度始めだしたら、世界は皆々決まりてあるのやで。……さあ/\今までにも成るなれど、成らん成ると言うて居たのは、皆々神が抑えて居たのやで。さあ/\ぢば一つすっきる治めて、それより今度はぢばから出すのは生涯末代やで。暫くの処じいっとして居るがよい。この事それ/\へも伝えて置け。(明治21・8・9)
と言われて、七月二十三日に天理教会本部は一応ぢばに移ってはいるが、ぢばにしっかり治めてから、ぢばから渡す理は生涯末代の理である。それを楽しみに今暫く待つようにと諭されている。
 これは、諸井国三郎に限った事ではない。明治二十一年七月二十六日、大阪明心講分教会の願にしても、
さあ/\未だ/\一つ。今一時何からでも同じ事。さあ/\ぢば一つ同じ木や。互い/\この理上以て、さあ/\早く治めてくれるよう。
と仰せられ、教会本部はようやく、ぢばに移った直後であるから、今のところ、これ一つでよい。すべて道というものは、ぢばを根幹とする同じ木のようなものであるから、まず根をかためる事が大切である。とてお許し下されていないのである。
 このように、地方教会の設置に於ても「講」から連続的に発展したものではなく、地方教会も、親神の意図のもとに設置されたと見るべきではないだろうか。
 何となれば、講の実態が明確に残ってはいないが、これらの講が仮に、後に述べる地方教会の要素を十分に備えていたとしても、明治二十一年十一月二十九日、天理教会本部が設置されるまでは、許されていないのである。つまり、地方教会は教会本部あってのもので、単独で自己発展したものではなく親神の意図的配慮によって設立されたと見るのである。故に、教会本部がぢばに定まり、確立するまでは、再三にわたる出願も許可されなかった神意があり、講からの連続ではなく、講とは非連続のものであると思われる。
 そして「秋を合図」にとおさしづにも知らされているように、天理教会本部の開筵式が終るとすぐ、再び諸井国三郎は教会設置を願っておさしづを伺ったところ、快くお許し下されたのである。

 明治二十一年十二月五日諸井国三郎分教会再願の願
 さあ/\改める処/\、一つの理、改めて治める一つの理。さあ/\心一つの理を聞いて、だん/\一つの理を聞いて、さあ/\だん/\/\一つの理を改めて、一つの理を、さあ/\/\早く治めよ/\/\。
十二月五日と言えば、教会本部開筵式が終了し四日目、まことに待構えていたというように、諸井国三郎その人の気性をも、如実に物語っていると共に、教会設置ということは、一人の人間の賢さや肚芸を以てなされるべきものでなく、芯となるべき者を中心として、関係者の心が一つに治まってこそ、そこに許される理が成り立つものであることを「心一つの理を聞いて」と戒められているのである。
 山名分教会が設置のお許しを頂いたので、平野楢蔵は、さっそく分教会設置を願い出た。
 明治二十一年十二月十一日郡山天龍講分教会伺
さあ/\尋ねる一条、一つのさしづ、さあ/\所々に名を下ろす/\、。年限経ちた一つの所、案じは要らんで。皆揃うて心を治め。所に理を無けらならん。皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで。急く事は要らんで/\。心を揃うて、あちらこちら/\、皆揃うて、心の理をろっくに治まれば、理を治めるで。皆心を揃うて、談示は第一。ろっくに心治まれば、綺麗に治まる。一日の日、話一日の日。
とて、年限経ちた一つの所に教会は許されるのであり、同時に、そこには「心の理ろっくに治まれば」とて、人間の心の一手一つに治まる所である事を教えられていると思われる。
 そして、明けて明治二十二年になると、これに続く各地方の講社が、続々と設立を願い出て、いずれも許されている(3)。
 さあ/\願う一条/\、尋ねる一条。さあ/\、長らえての道/\、さあ/\、一日の処、日々の処、これまでさあ/\神一条の道はこれからや。一手一つに運び、さあ/\大層々々であろ。先ず/\秘っそ/\。掛かりは先ず先ず秘っそ/\にして運ぶ処、さあ/\許そう/\(4)。(明治22・1・15)
 さあ/\/\/\願う処、尋ねる処、さあ/\長らえて/\、さあ/\長らえ、さあ/\運ぶ一つ理長らえ/\。さあ/\道の処行く/\の道、だん/\の道通り来たる処、世界一つの理という。所々神一条運ぶ一つ理治まる処、ゆくえ一手一つ理尋ねる処、長らえて一つの道、これまで明らかという理尽す治まる処、許そう/\/\(5)。(明治22・1・15)
とて、「長らえての道」を教えられ、それまで長い年限伏せ込んだ効能の理に許されるもので、「神一条」の道を運ぶ処であると言われている。そして、教会は「一手一つ」に治まらねばならぬと仰せられているのである。
 では、教祖の身上を賭してまでも、「道を変えた(6)」とて許され、具体的に設置された、教会の意義はどこにあるのであろうか。



(1)明治二十一年十二月五日 諸井国三郎分教会再願の願を以て、地方教会設立を許された最初のものであると思われる。詳しくは、第三章内、「明治二十一年十二月五日諸井国三郎分教会再願の願」参照。
(2)『天理教山名大教会史』65〜70頁。しかし、これとても届書を提出し、諸井国三郎宅に「大日本天輪教会支会」の看板を掲げたもので、認可を受けたかどうかは不明である。
(3) これ以後、設立を許可された教会を列挙すると、
明治22年1月15日 芦津分教会(真明組)
1月15日 船場分教会(明心組)
同日 兵神分教会(兵庫真明組)
2月18日 河原町分教会(斯道会)
などである。
(4)大阪明心組より分教会所御許し願。
(5)神戸兵庫真明講より天理分教会設立の儀、端田久吉、富田伝次郎、清水与之助、増野正兵衛総代にて御許し願。
(6) 前述第二章「おさしづ(明治24・1・23)」参照。
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おさしづに見る教会像・第二章 存命の教祖と教会設置

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論




 第二章
 存命の教祖と教会設置
 明治二十年正月から、教祖の身上を台として積極的に押し進められた事は、「おつとめ」の完修にあった(1)。
 おさしづに、
 さあ/\今一時に運んで難しいであろう。難しいというは真に治まる。長う/\/\四十九年以前から何も分からん。難しい事があるものか。
 真之亮より答『法律がある故、つとめ致すにも、難しゅう御座ります』と。
 さあ/\答うる処、それ答うる処の事情、四十九年以前より誠という思案があろう、実という処があろう。事情分かりが有るのか無いのか。(明治20・1・13)
といわれているように、当時「おつとめ」を勤修する事が、いかに困難な状況にあったかが推測される。人々は親神の意図する「おつとめ」を勤修する為に種々協議を重ね、心定めもし(2)、又夜ひそかに「おつとめ」をするのだが、教祖の御身上は、なかなか良くなっては下さらない。さりとて、教祖の言われる通り「おつとめ」を勤める事は、法律の許さぬ事でもあり、両者の板ばさみに苦悶された。
 そこで、真之亮より『教会本部をお許し下された上は、いかようにも神様の仰せ通り致します』という問に対し、教祖は
 さあ/\事情無くして一時定め出来難ない。さあ一時今それ/\、この三名の処で、きっと定め置かねばならん。
 何か願う処に委せ置く。必ず忘れぬようにせよ。(明治20・1・13)
とのおさしづを下された。これは、お前達は人間思案では不可能と思えるようなむずかしい事情が起って来なければ、なかなか心が決まらぬ。今の事情にしても、今すぐつとめを勤修する事はむずかしいと思っているであろうが、今お前達が言った「いかようにも神様の仰せ通り致します」と言う心構えが大切である。教会設置についても、願わねばならない何かの事情が出来てくる。このふしから教会を願う時があるから、今の場合としては、教会を設けてから神様の仰せ通りさせて頂くというような時ではないから、今のところ、三人の者(真之亮、梶本松次郎、前川菊太郎)は、しっかりとした心定めをしておかねばならない。それができたならば、お前達が願い出ている教会設置にしても、願い通り許してやろう。その時に教会を設けるのであるという事を決して忘れることがあってはならない。だから今、お前達が心に定めた通り、一手一つに心を結び、神の言葉通りに運んでくれと仰せ下されたものである(3)。
 ここに、今まで失敗を重ねた教会公認運動が、教祖の現身を隠される直前に於て、一時も早く「おつとめ」を勤修するようにというきびしい親神のお急込みの中で、やっと、教会設立をお許し下さる意図を表示されたのである。教祖の存命中に、皆のものが、あらゆる手段をこうじて奔走し、公認教会として布教の許可を得て、教祖に御苦労止をかけず、参拝の人達も心安く参拝できるようにと考えた教会公認運動は、教祖の現身を隠された時点に許された。
 明治二十年陰暦正月二十六日、「おつとめ」さえ勤めれば、教祖の身上は良くなって下さるものと信じ「おつとめの時、もし警察より如何なる干渉ありても、命捨ててもという心の者のみおつとめせよ」と、一同本勤にかかったが、それが終るとともに、教祖はその現身を隠された。そこで内蔵の二階にて、飯降伊蔵により、おさしづを伺われると、
 さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉聞いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までと、これから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろつくの地に。扉聞いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。(明治20・2・18)
と、それは人間的出直しでなく、それによって、新たに世界一列のたすけを急込まれる神の意図の発現であって、子供可愛い故に、その心の成人を促そうとて、二十五年の寿命を縮めて、突然身をかくし、今からいよいよ、世界を駈け巡って積極的にたすけをする旨を教えられたのである。つまり、そこには教祖の救済が人間世界全般に広く伸展して行く事を思し召され、やりたいものをだんだん渡すとて、側近の者に、たすけ一条のこうのうの理としてのおさづけを渡されるようになった。又同時に、
 たすけを急き、扉を聞いて世界をろくぢに踏み均らしに出た。(明治20・2・24)
と言われた。これは、世界一列まんべんなく救けに出ると言う意味であろうが、又、次のおさしづから、
 さあ/\身の障り/\。第一一つ/\、皆んな一つ聞き分け。尋ね出る理がある。今一時は世界中という。どちらやろ/\、一時始める/\、いつの事やと思うて居る。あちらの国に一つ、あちらの所に一つと、どうもこれまで聞かしてある/\。遅れ来てある処々、年が明けたら、ろくぢと言うてある。なれども、皆案じてどんならん。扉を開いて、世界をろくぢに踏み均らすと言うてある(4)。(明治20・7)
 「扉を開いて世界をろくぢに踏み均す」と教祖が現身を隠された直後に言われた事は、それが「あちらの国に一つ、あちらの所に一つと、……扉を聞いて、世界をろくぢに踏み均すと言うてある」とて、将来地方に教会を設置する事によって、世界一列を救済する為に働く旨を教えられていると考えられよう。ここに、
 五十年以来の道は何でも彼でも通り来た。言わば腰掛けたような道や。まあ/\、長い間の処にてどんな事もだんだん仕込もうと思えども、そこまで行かなんだ。そこで一つ道を変えた。(明治24・1・23)
と言われるように、教祖が現身を隠されたことは、たすけ一条の往還道へとの転換期であったと思われる(5)。そして、その往還道へと発展するが為に、救済活動の積極化の為に、「さづけの理」と「教会の設置」を許され、具体化されて行くのである。
 かくて明治二十一年三月八日(陰暦正月二十六日)教祖一年祭が執行されたが、櫟本分署長山中辰之助他巡査八名が出張し、祭典の中止を命じた(6)。
 この節を機として、公認運動は具体化し、次の日、おさしづを伺ったところ、
 十分道と言えば、世界から付けに来る。世界からろくぢという道を付き来る。濁った/\道でどうもならん。一つ所より吹いたる枝/\/\、一寸吹いたる芽は、今度は折れん。十分枝が吹くと。どんな事も聞いて置け。(明治21・3・9)
と、この事情こそ教会設置の節であるが、それは明治二十年一月十三日のおさしづに許されてあるように、この節は皆の心の掃除であって、真実の者によって十分の道になれば、世界からこの道はつけかけて来るのである。そして、ぢば一つの所より出た芽として折れることはなく、将来の栄えゆく旨をお聞かせ下さった。
 そこで、つづいて天理教会設立について伺われた。
 さあ/\どんな事も俺がするのやで。善もある、悪もある。善悪分かるのやで。悪は扈からす/\善より思案して見よ。五十年前よりある。無い/\という処から付いて来てあるもの。どんな道も連れて通ろう。一つ理も立てよ/\。十分の理を立つものと、一つの所に日々一つの道を付けようと思う。一つ道も連れて通る。こうして居られん。世界の処こうして居られん。同じ理や、連れて通ろう。(明治20・3・9)
と言われ、進展する世界の情勢と、その中に揉まれて善慮する子供達の姿を思いやられて、ぢばの理に立つ限り、たすけ一条の道に変わりないとされて、いよいよここに応法の道(7)をお許し下されたのである。
 又、教会設立を運ぶに付心得
 元々の所というは、十分に洗い切る。金銀の理を分けるまで洗い切る。やしき一つの理すっきり洗い切る/\。内一つの理というは、ぢば一つ理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて。
 渡る川も渡る、連れて通る道も通る。誰々とも言わん。これ/\という者寄って運んでみるがよかろうと。元々の思案、神の道というものは、よう聞いて置かねばならんならん。(明治21・3・9)
と本部はぢばの理に設けられるべきものであるが、今一時、所を変えての出願をも許され、さっそく、教会設立出願の手続きを、種々協議を重ねたうえ、東京府に於て出願するのである(8)。そして事は順調に運び、四月十日付をもって、東京府知事の認可を受け。「神道直轄天理教会本部」が東京に於て設立されるのである(8)。しかし一度は社会の法律に妥協した型で許され、その目的を達したが、親神の意図された教会本部の理を曲げられたものではない(9)。
 世上の気休めの理を、所を変えて一寸理を治めた。世上には心休めの理、ぢばには一寸理を治める。ぢばの理と世界の理とはころっと大きな違い。(明治21・7・2)
 先ず/\このぢば・かんろうだい一つ、何でも彼でも運ばにゃならん。どんな道、世界の道、ほんの気休めである。発端の道、何か急いで取り掛かれ/\。(明治21・7・3)
と教会本部はぢばを離れては成り立たない事を知らせ(10)、本部をぢばに移すよう急込まれた。そこで早速、その段取りに着手。七月二十三日奈良県庁へ届出を済ませ、本部はぢばに移ったのである。そして、つとめ場所の増築を済ませ、明治二十一年十一月二十九日(陰暦十月二十六日)教会本部開筵式が、
 さあ/\尋ねる処応法一つの式/\一寸の初めというものは、さあ/\約束はあるなれども、用が出ける/\。……元々五十年の心よりの理を見よ。日々出けて来てあるのやで。さあ/\又世界応法の処/\。さあ/\神一条の道というは、めん/\心に理を治め、世界は/\世界の理を治めい。(明治21・11・11)
というおさしづに基づいて、十数万人の信者を集め挙行されたのである。
 ここに於て初めて、天理教会本部が設置されたと見るべきではないだろうか。
 何となれば、教祖がその現身を隠される時点に許された教会の設置は、社会に対する適応的な処置として、「世上には、ほんの気休め」として、東京に於てそのお許しを得たが、親神の意志はすぐにでもぢばに移す旨があったようである。そして、何よりも、絶対曲げる事のできないぢばの理の重要性を知らしめられつつ、究極には、その本質たる「ちば・かんろだい一つの理」を離れられなかった点にあろう。
 又、親神は、明治二十年五月九日、明治二十一年四月十七日、明治二十一年十一月一日の刻限話に、「秋を合図に」と言う言葉でもって(12)、あらかじめ教会設置の時機を予告されている事からも、さらに又、この日まで、如何なる地方の講からの分教会設置願いをも、
 ぢばをちゃんと治めて、それからあちらこちらへも始め出すとの事、今度は生涯末代やで。そこで神が抑えて居たのやと。(明治21・8・9)
と言われ、その設置を許されなかった(13)事からも、言えるのではないだろうか。
 「人々は、多年に亙り警官の抑圧のため表向きの信仰も出来なかった苦しみも、ここに全く去り、多年の困難こゝに初めて愁眉を開き、多年の辛抱こゝに初めて美わしき花を聞く時を迎えて、手の舞い足の踏む処を知らず、歓びの声はおやしきの内外に充ち満ちた(14)」
のである。



(1)明治二十年一月四日(陰暦十二月十一日)からのおさしづの問答をうかがうと、総て「おつとめ」を勤める事を急込まれている。
(2) 明治二十年一月四日のおさしづにより協議を重ね、「世界なみの事二分、神様の事八分。心を入れつとめを為す事。こふき通りに十分致す事」を定めている。
(3)植田英蔵著「教会の意義」『あらきとうりょう』2号23〜24頁に於て、このおさしづを挙げ、教会設置を許されたと述べている。
桝井香志朗著「教会の陽気ぐらし」『みちのとも』昭和30年3月号42頁に於ても、同様の事を述べている。
(4)平野楢蔵願(国々処々に地方教会設置のお急込みのおさしづ)。
(5)教祖が現身を隠された意義を、深谷忠政著「教祖の御帰幽と本席の御出直」に於て、次のように述べられている。
 「第一は、教祖が御身上を台として、如何なる迫害にも屈することなく、厳然断乎として「おつとめ」の勤修をせき込まれたこと。
 第二は、御帰幽を契機として、教祖の代理者たる本席を通じ、「おさづけ」を広く一般に出すように定められたこと。
 第三は、天理教教会の設立をお許しになったこと」。(『天理教学研究』2号24頁)
(6)『稿本中山真之亮伝』60頁参照。
(7)応法の道とは従来、法律に順応するとか、他の権威に委ねるという意味に取りがちであったが、私はそうではないと考える。それは、世上世界から余儀なく出来てくる、一時的過渡的なものであると思われる。詳しくは第四章参照。
(8)『稿本中山真之亮伝』67〜76頁参照。
(9)例えば、教祖御存命時代から信者にお下げ下されてきた御供を、東京の教会本部より出す事についてのおさしづ(明治21・4・29)で、はっきりと「ぢばより送るよう」と、ぢばの理は一つ、これを潰すことは出来ないと、許されていない。
(10)明治二十一年六月二十三日ぢばに於て分教会所設置の件伺にしても、神一条を胸に治めて、教会本部の移転の手続きを運ぶがよいとて、分教会設置を許されなかった。
(11)明治21・6・15、明治12・6・21おさしづ参照。
(12)明治二十年五月九日刻限御話
さあ/\一寸刻限話、さあ/\どういう事、どういう道が付くやら分からん。急がし。どんな道が付くやら、ちゃんと分かりてあるで。何時やら分からんで。多くの人数が要るで。さあ、あっちもこっちも急がしいで。手が足らん。十分の道、どんと大きな道を造りゃ、ちゃんと備えを付けて置かねばならんで。今度は珍し道やで。さあ楽し。どういう水が出るやら。流れるとも分からん。何も彼も/\秋を合図に、どんな事も皆々この話して置かねばならんで。
 明治二十一年四月十七日刻限
さあ/\一寸刻限話、何時どういう道に成ると分からん。急がしいてならん。さあ/\身拵え出けた。いつからや、何時や分からん。さあ多くの人が要る。あちらもこちらも手が何人要る。さあ十分の道運んである。言う処をやと備えを立てゝ置け。今度は珍し道やで。これまでふでさきにも付けてある。それを眺めて置け。ちゃんと身体を据えて置け。目配りせにゃ、ならん。又それ/\へ一寸話もして置け。いつとは分からん。これまで秋を合図と言うてある。十分運び出来てある。こんな忙しい、世界も忙し年に、一度忙し刻限、皆それ/\へ合図立て合い、刻限それ/\へも伝えて教えて置け。
明治二十一年十一月一日刻限御話
さあ/\/\/\、珍し/\、、珍しい事を言い掛けるで/\。さあ/\。これ/\、秋を合図と、これまでにだん/\に言うてある。秋を合図に見え掛けるで。さあ/\古い話や。いつの事やと思うたであろう。秋を合図にこれまでの話やで。だん/\話掛け。年が明けたらいろ/\や、年が明けたらいつまでも始め、始め掛けたらいつまでも。年が明けたら一日の日がある。一日の目というは、前にも一つの話、一日の日はいつの一日の日とも分からん。年を明けたら一日の日、治めるもその日、始めるもその日、いつの事とも分かりゃせん。一日の日始め掛ける。一日の日に仕舞する。その日は分かるまい/\。いつまでも楽しみや楽しみやと言うて来た処、長い筈や/\。たった一つの所より、だん/\始め掛け。十分年限経って又始め掛け。年が明けたら一日の日があると話して置く。話し掛けたら一日の日がある。いつ/\までの道、永い道の楽しみや。深い一つの理を聞かそう。一寸一つの話掛け、一寸一つの話掛け。
 これらのおさしづの「秋を合図」と言う言葉を、麦秋だとか種々解釈されているようであるが、文字通りの「秋」と解して、明治二十一年十一月二十九日の天理教会本部設置の予言とみる。
(13)『稿本中山真之亮伝』90頁には、「本部が大和へ移転した、と聞くや否や、早速、大阪明心組と、東京真明組とから分教会設置を出願して来た。これに対して、前者は七月二十六日付、後者は八月五日付、快くお許しのおさしづを下された」とあるが、これら地方教会の設置は、本部開筵式が終わるまで許されなかったと考える。詳しくは第三章で論述する。
(14)『稲本中山真之亮伝』93頁。
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おさしづに見る教会像・第一章 教会以前

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論




 第一章
 教会以前
 天理教の「教会」が設置される以前に「講」と言うものがあった。これは、明治の初期の頃から、おぢばに参詣する者の集団すなわち、地域的な信者が、参詣と言う一つの目的の為に、自然発生的にできたのが、その初期の実態であったと言われている(1)。初期のそのような講組織は、それ故に、当時の「伊勢詣り」等と同じように、彼らにとっては、有名寺社に現世利益をもとめる参拝や巡拝(2)と何らの相違点も考えられなかったのであろう。故に、彼らは、その「組織体」に村名を冠せしめた講名を用いた。そして、その実態も、実に、娯楽的な要素の強いものであった事が推測されるのである。
 「講社の発生は、地域的に気心の合ったものが相寄って自由に気軽に信仰をはげみ、楽しむ目的を以て生れて来たものと考えられる。(3)」
しかも、単なる楽しみを目的とし生まれて来た故に、自由に気軽に家庭的に信仰にはげみ且つ信仰を楽しんだのではないだろうか。
 一方、教祖は文久・元治の頃から、
 「講を結べ(4)」
とお急込みになったと言われ、又慶応三年に執筆された「みかぐらうた」五下り目に、
 どうでもしん/゛\するならバ かうをむすぼやないかいな
と記されている。しかし、この教祖の御言葉を周囲の人々は如何に理解していたかは、不明である。明治八年の天元講にしても、
 「ところが今日(5)はからずも村人達が心からの疑いの夢からさめて元の神、実の神であると信じてくれた。その語り合に、こかん様出直しの悲しみも忘れて、にこ/\とお喜び下されて『あんた方そんなにわかって下さったのやったら、一つ講を結びなはれ』と仰せ下さった。一同の者は口を揃えて『結ばせてもらいます。信心させてもらいます』と答えた。
 すると教祖様は御自分のお召になっていた赤衣の羽織をぬいで『これを神様めどうにしてお祀りしなはれ』と一同にお下げくだされて、講名を天元とおつけ下された(6)」
と言い伝えられているのみで、その実態がいかなるものであったかは不明である。しかし、この事からも、信仰の維持発展の必要上から、教祖は事ある毎に、講をつくる事を促された事が推測されるのである。
 そして明治十一年四月には、当時、大和・河内にあった諸講中の中心として、秀司先生を講とする「真明講」が結成されたと伝えられている(7)。これも詳細の記録はなく(8)、講社の性格がはっきりしないのは残念であるが、これら二つの講は、前述の自然発生的な講に比して、そこに何らかの教祖の積極的な意志があったのではないだろうか。
 信者の数がふえ、参詣者の数が増加するに連れて、当局の干渉と弾圧は愈々激化し、中山家を背負う秀司先生はそれを避けるために種々苦心された(9)。その結果、明治十三年九月、金剛山の地福寺配下の出張所として「転輪王講社」が設置されたのである。これは明治十五年十二月まで続くが、以後おやしきの講社を中心に、地方の講社(10)をも統轄し、講組織も一段と進み、講社名も「村名式講」から「組式講(11)」へと変わっていったのであろうと思われる。しかし、これは仏式教会で門前で護摩を焚き、僧侶を呼んで来て説法させたもので、教祖も
 「そんな事すれば、親神は退く(12)」
と仰せられ、きびしく反対されたようである。
 この「転輪王講社」と前述の「天元講」「真明講」とは当然その性格が異なっているのではないだろうか。
 「真明講の方は、講を何すると仰言っておる方は、自主的に教祖の思召しのままに、そうしてすべてをそれにベた凭れして言いかえると、絶対に信頼を持って進んでいく、……それに対して転輪王講社の方は、ほかからの力を防ぐ意味において、ほかの力にともかく防禦を頼む、かような意味であります。応法と申しておりまするのはこの意味で、ほかの力によってそうして身の安全をはかろうという、この間には同じく講と呼びながら違うのであります(13)。」
という前真柱の説を取り入れたい。
 その後、数年間における官憲の圧迫干渉は特にきびしかった。しかし、こうした中も、人々の信仰は絶える事なく、色々な方法を講じながら、教祖の急込まれる「つとめの勤修」と「布教の公認」を目指して様々な教会公認運動が展開された(14)。
 しかし、こうした教会公認運動も、結局失敗に終ってしまった(15)。そこに、教祖はあくまでも純粋な信仰に基き、それが組織化されるべきである事を、我々に教えようとされた意図があったのではないだろうか。
 「親神の目から御覧になると、認可云々の如きは全く問題ではなく、親神が、ひたすらに急込んで居られるのは、陽気ぐらしへのつとめであった。激しい迫害干渉も、実は、親神の急込みの表われに外ならない。しかるに、人々はそこに気付かずして、ただ皮相な事柄にのみ目を奪われ、人間思案に没頭して居たから、空しい出願を、繰り返して居たのである(16)。」
こうした経過をたどりながらも、人々の教会公認への希望は強く、再三にわたりその運動は展開されたのであるが(17)、ここに事態は急変した。明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)教祖が現身を隠された事である。



(1)中山正義国者『ひとことはなし』道友社122頁。
(2)体系日本史叢書『宗教史』山川出版社321頁参照。
(3)高野友治著「講社の研究」『あらきとうりょう』2号14頁。
(4)『稿本天理教教祖伝』142頁。
(5)明治八年陰暦八月二十八日こかん出直(三十九才)。
(6)『天理教全直属教会略史』宗教文化研究所964頁、天元分教会。
(7)『稿本天理教教祖伝』142頁。
(8)「講金預之通」により、講元・中山秀次、世話人・中田儀三郎、辻忠作、松尾市平、中尾休次郎らの名前が知られるのみであり、その活動がどんなものであったか、詳らかでない。(高野友治著「講社の研究」15頁参照)
(9)年が明けると明治九年。絶え間なく鋭い監視の目を注いで居た当局の取締りが、一段と厳重になったので、おそばの人々は、多くの人々が寄って来ても、警察沙汰にならずに済む工夫は無いものか、と、智慧を絞った結果、風呂と宿屋の鑑札を受けようという事になった。が、この時、教祖は、
 「親仰が途中で退く。」
と、厳しくお止めになった。しかし、このまゝにして置けば、教祖に迷感のかかるのは火を睹るよりも明らかである。戸主としての責任上、又、子として親を思う真心から、秀司は、我が身どうなってもとの思いで、春の初め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。(『稿本天理教教祖伝』134〜135頁)。
(10)「明治十五年三月改メ講社名簿」によると、大和(五)、河内(一〇)、大阪(四)、堺(二)、の計二十一の講社名と一四四二名の信者名が記されている。(『ひとことはなし』128〜130頁参照)。
(11)秀司先生は地方の講社を統轄する意味において、おぢばの講社名を講とし、地方の講社を組というような呼び方をされたと思われる。それ故、組式講は転輪王講社時代にできたと見るのである。(『ひとことはなし』126頁参照)。
(12)『稿本天理教教祖伝』148頁。
(13)『第十六回数義講習会第一次講習抄録』道友社301頁。
(14)教会公認運動の主なものを挙げると。
明治14年・12月大阪の梅谷四郎兵衛は、和光寺へ教会公認の手続書を提出する。
明治16年・3月鴻田忠三郎の計らいにて、建言書に添えて、神楽歌一冊御筆先六冊目及古記を大蔵省へ進達し、教会の許可を得んとしたが、凡そ二カ月を経て大蔵省より不秩序の理由を附して却下された。
明治17年・5月梅谷四郎兵衛は「心学道話講究所天倫王社」を大阪順慶町に作る。
9月竹内未誉至らは大阪北炭屋町に「大日本天輪教会」を設置しようとするが、寄附金募集に
ついて八尾警察署へ四日間の勾留になり遂に不成功に終った。
10月諸井国三郎が「大日本天輪教会遠江支会」を静岡県庁に出願。認可は不明。
明治18年・3月村田長平方で教会設置の会議が聞かれる。
この時、「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者にな
るやわからんで」(『稿本天理教教祖伝』277頁)とのおさしづが下る。
4月29日付で天理教会結収御願を大阪府知事宛に提出される(6月18日付却下)。
5月23日天理教は神道本局直轄六等教会設置を許可される。
7月3日神道天理教会設立御願を大阪府知事に提出(10月28日却下)。
この年四国では土佐卯之助等が、修成派に伝手を求めて教師の補命を得た。
(15)転輪王講社の取払は、天理教と仏教との峻別を仕込まれた神意であったと言えよう。教会といえば神式も仏式も同じように思っていた当時の人々は、ここに、本教の基本的性格を深く省みたに違いない。
竹内某による運動の失敗は、教会がたすけ一条の信仰の道場たる性格を失って、ただ現世利益を安売りし、営利事業団体化せんとするに警告を発せられた神意の顕現であったであろう。
諸神社の祠官達及び地方の名士が連署した運動が当局にも許可されず、又教祖が戒められた御言葉によって、本教が在来の神道とは異なるということを明らかにされたのであり、教会は飽迄も純真なる信仰に基いて、初代真柱を中心に、本教の信者がかたく結集すべき事を示されたものと思われる。(深谷忠政著「天理教教会論(一)」『あらきとうりよう』4号14〜15頁参照)。
(16)『稿本天理教教祖伝』280〜281頁。
(17)一例をあげると、明治19年の末、大阪府に出願しても聞き入れられないので東京で出願してはと言う事となり、これには真柱様も同意され、今まで教外のカを借りていたが、今度は教内の力によって出願する事になり、明治19年12月11日に増野正兵衛、鴻田忠三郎、清水与之助の三名が神戸より出帆、12日横浜着。汽車にて築地五丁目に宿を取り、先着の諸井国三郎と会して、御神言による純教理を集録した古記二冊を作製し、一冊を神道本局に提出した。この間、一行四名の者は神道本局の古川教正を訪ね、篠森乗人氏を訪ね、これに上原佐助も加わって色々と奔走している。ところが、教祖の御身上思わしからず、12月24日(陰12月9日)神道管長よりの辞令を得られはしたが、東京府に出願せず、そのままにして皆がおぢばに帰っている(高野友治箸『御存命の頃』下巻167〜168頁参照)。
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おさしづに見る教会像・序論

天理教校論叢 第十二号
昭和四十八年九月

おさしづに見る教会像
上垣敬一(天理教大今里分教会・三代会長)

目次
序論
第一章 教会以前
第二章 存命の教祖と教会設置
第三章 地方教会の設置
第四章 教会の主要素と意義
結論






序論
 およそ、既成宗教にあって、「教会」の存しない宗教は皆無と言ってよいであろう。
 古来からの如何なる宗教も「教会」と言うものないしは「教団」と言う如き(1)信仰集団なしには、その宗教が、この世に存続する事は不可能であったと思われる。
 しかるに、天理教に於ける教会は如何なるものであるのか。現実に、本教にあっても、天理教教会本部をはじめ、一万六千余の教会を擁している。
 「教会とは何か」。我々は現に教会生活をしている。しかし、ただ漠然としていて、この問に明瞭に答える事ができない。ただ教会に生まれたが故に、教会に育ったが故に、教会生活をしているのか。信仰上の問題と密接なる関係にあるのか。そんな疑問から始まって、果して、天理教に於いて「教会論」は必要であるのか、それ以上に「信仰をより深めること」がより重要な問題ではないのか、との反論も生じてくる。もう一方では、「教会形成、教会の内容充実」が叫ばれて、近年ますますこの叫び声が高くなって来ている。
 では、教会とはいったい何を意味し、何を目的とするのか、言いかえると、教会の本質とは何かと言うことになる。それにより教会の運営方法ということも明瞭となるであろう。信仰上の本質問題との関係も明瞭となるであろうと考える。
 又一方、教会論が異端の発生を生み出したと言えよう。何となれば、仏教やキリスト教にしても、当事者は、それを決して異端とは思っていないだろうが、いずれも経典・聖典にさかのぼる「宗」あるいは教会の本質の理解の相違、信仰上の教団の本質の相違から生じてきたものである。(2)
 しかるに、ここに教会論を取り扱おうとすることは、教会の本質を理解し、異端の発生を防ぐという意味からも、天理教教会とは何であるか、又如何にあるべきかと言うことを反問せずにはいられないのである。
 そういう教会の本質を述べる以前に、天理教に於て、教会発生の源泉はどこにあるのか、単に、一般的に宗教なるものが具体的に成立するために、一つの特殊的具体的な教団を結ばねばならぬ故に(3)、あるいは教祖の遺訓をそのまま厳守する為に、教団それ自体の自覚的発展により、教団の機構の確立が行われた結果、教会が設置されたのか。あるいは、教祖の指図により、親神の積極的意図から教会が設置されたのかを問わなければならない。
 そして又、具体的に設置された教会が、果して、現実存在なのか、キリスト教のように、「見ゆる教会」「見えざる教会」(4)と言うふうに、現実存在以外に「神の国」「神のからだ」としての不可視的な要素を持つものなのか。本教に於ける教会の要素を検討し、その可視性と不可視性を問わなければならない。
 さらに、その教会の要素を検討してゆく事によって、その内面に込められた親神の意図と、信仰上の本質問題とのかかわりを知り、本教の教会の意義を考察し、教会論形成の素材となればと本論を進めてゆくのである。
 ここに教会の源泉に帰るということは、この試みが、現実にある教会をそのまま保存し、存続するものであるかのように考える誤解を防ぐのに役立とう。源泉に立ち戻るということは、それによって認知されたものに、今日の時と状況との中で新しく形を与える場合にのみ、有意義たりえよう。教会の定式や秩序を単に反覆することは、特定の伝統の内部で継続的な発展を試みること同様、教会の純正性を何ら保証しないと考えるのである。
 教会史は註釈という課題に際して助けとなろう。しかし、それは啓示の源泉ではない。それは、非常に真剣に聞かなければならない解釈ではあるが、われわれを常に新しく源泉に立ち帰ることから放免するものではない。というのは、教会の歴史は、常に新しくなされる理解の歴史でありえると同様に、常に繰り返される誤解の歴史でもありえるからである。正しい教会は、それ故おのおのの状況の持つ問題と危険と約束とを注視しながら、また従来の歴史に謙虚に耳を傾けながら、常に新しく繰り返し原典に向かって問を発するところにのみ存しよう。
 それも原典を法則的に再現しようというのではなく、その中に含まれた信仰を聞くという、そこにおいてのみ存するものである。
 当然この論を完全ならしめる為には、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」の三原典を扱わねばならないが、私の能力の及ぶところでなく、又、時間的余裕もないので、明確に「教会」という表現が使われている「おさしづ」の範囲内で、この問題を取り扱っていこうと考える。


(1)「教会」と「教団」との区別は場合によっては、色々の差異が述べられているが、Karl Barthは"Dogmatikim Grundriβ"に於て"Kirche"を"Gemeinde"に置き換えている事からも、同意語とみなして良いのではないか。わが国における特製の「無教会主義」を唱導する人びとは、しばしば「教会」と「エクレーシァ」(集会、集合)を峻別し、後者のみを認めるという。そこで、無組織、伝統無視というような性絡を打ち出すもののように見える。しかし、その結果は、著しい主観主義、また一種の神秘主義に傾くことは見逃しがたい事実である。
(2) 「仏教における分派の発端が、思想もしくは伝承等の先与的条件によらず、その人的集団の対立が顕著となる事によって初まった。」(真野正順箸『仏教における宗観念の成立』理想社23頁)。キリスト教における、カトリックの東西両教会・プロテスタントの各教派間の対立も、教会観の相違に他ならない。
(3) 真野正順著『仏教における宗観念の成立』7頁。「即ち一般に宗教なるものが具体的に成立するためには、一つの特殊的具体的なる教団を結ばねばならぬという事実、--換言すれば、個性化せねばならぬという事実そのものの中に萠していると言えるであろう。」
(4) カルヴァン著『キリスト教綱要』新教出版社第4篇・第1章(29頁)に於て、教会を「見ゆる教会」「見えざる教会」と観念的に区別して、「われわれにとっては、『目に見えない--ただ、神の御目にしか見えない--教会』を信じることが必要なのであるが、それと同じように、われわれには、人間の目で見て『〔見える〕教会』と言われるものをも重んじ、これとの一致を保つことが命じられるのである」と述べている。北森嘉蔵著「ルターの教会観」に於て、「『教会は不可見的にして霊的であり、ただ信仰によって受け取られ得るのみである。』而も同時にルターにとっては教会は見ゆる教会である。」と述べられている。(『教会--その形成への課題』新教出版社148頁)

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2023年03月01日

立教186年・三月月次祭神殿講話

立教186年・三月月次祭神殿講話





ただいまは、当教会の三月の月次祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

先日、2月25日の夕方から、次女が39度を越える高熱を出しまして、検査の結果、インフルエンザでした。
この身上お手入れから思案致しましたところをお伝えさせて頂きたいと存じます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

コロナ対策が浸透しまして、昨シーズンまでの二年間、インフルエンザはほとんど症例が無かったのですが、今シーズンは、コロナ以上にインフルエンザをよく聞くようになりました。
地域によっては、学級閉鎖ではなく、学校閉鎖まで起こっているそうです。

うちの子ども達が通う小学校でも、インフルエンザに罹患する子が増えてきていました。

2月25日の昼までは元気だったのですが、夕方頃から頭痛を訴え、この時点で、38度を越える発熱でした。
コロナか、インフルエンザか、はたまた、たまたま高熱が出る普通の風邪か。
検査をするまで判断はできませんが、なんとなく、インフルエンザだろうなと思っていました。
コロナには昨年五月に家族全員が一度罹っていて、当時の発熱の仕方はもう少しゆるやかだったこと。次女以外に症状はなく、コロナと比べて感染力が弱そうな雰囲気だったこと。39度を越える風邪は、可能性として低いことなどからです。

とは言え、25日は土曜日、26日の朝に受診・検査をするのが理想ですが、かかりつけの小児科は日曜日の為お休みです。
25日の夜、大阪府のホームページの特設サイトから、相談窓口に電話をし、休日診療してくれるをピックアップして貰いました。
親として、できることはこんなことくらいで、ほとんど何もしてやれません。

実は、この数日前に、SNSで、インフルエンザ脳症で亡くなった子の親御さんの投稿を見ていました。
急に不安になってきました。
翌日、ちゃんと受診できるのか、インフルエンザ脳症を発症しないか、どんな病気であれ、命に関わるようなことにならないか、重篤な症状の後、重い後遺症や障害が残らないか。考え始めると、不安はどんどんどんどん、膨らんで行きました。
そんな時、ふと思い浮かんだのが、当教会の初代会長様の入信です。

当教会の初代会長・上垣シナという方は、幼少期に、脳髄膜炎という身上を頂き、無い命を後遺症もなく、すきやかにたすけられ、この道の信仰を始められました。

お縋りする先は、神様しかない。

早速、一人神殿で、十二下りのおつとめをつとめました。
これだけで気持ちはかなり落ち着き、ぐっすりと休むことができました。

翌朝、熱はまだ下がっておらず、支給されていた抗原検査キットでもコロナは陰性でしたので、ピックアップして貰っていた医療機関三カ所に電話をかけました。
断られてしまった病院もありましたが、幸いにして、今里筋沿いの生野区にあるクリニックが受け付けて下さいました。

しかし、2月26日は大阪マラソンの日。
今里筋は北向きが午前9時半から通行止めになります。
受診予約は9時半。
焦る気持ちを抑えつつ、クリニックに向かいました。
妻と次女をクリニック前で下ろし、教会に戻ろうと一度市街地に入って、また今里筋に戻り北上しようとしたところ、9時29分。
今里筋を北上する、最後の一台として、教会に戻って来ることができました。

教会に戻り、PCで迎えに行く為の道を調べ終えた所で、妻から、「インフルエンザだった」と連絡が入りました。
すぐに、調べた回り道を通ってクリニックに向い、到着すると、ちょうどイナビルという、一回吸引すれば良いだけのインフルエンザの特効薬を接種した直後で、迎えのタイミングとしては驚くほどピッタリでした。
いつもより混んだ内環状線を北上しながら、色んな話をしましたが、次女も、受診前とは違って、身も心も落ち着いている様子で、冷静に話してくれていました。

そんなやり取りをしながら、つくづくと、私達は、とても恵まれているなぁと思いました。
日曜日でも、すぐ隣町で受診できたこと。
コロナだけでなく、インフルエンザも検査してもらえて、しかもすぐに陽性が判明し、特効薬を処方して貰えたこと。
コロナ対策をできていたので、コロナより感染力の弱いインフルエンザでは、家庭内に感染が広まらなかったこと。
交通規制があっても、他のルートをすぐに検索できる環境があったこと。
夫婦そろって、子どもの身上に対応できたこと。

何か一つ狂っただけで、実はとんでもなく大変な状況になってしまいそうな中を、私達は、守られて生かされているのだなぁと思いました。
今、挙げた以外にも、恵まれている環境は数限りなくあるんですが、一つくらい抜けてしまうことは、当たり前にあると思うんです。
でも、一つ抜けただけで、命に関わるような状況になってもおかしくない。
それが、一つも抜けずに対応できたということこそが、親神様の御守護であると思うんです。

特に、夫婦そろって対応できたこと。
妻は運転できませんし、私も、次女に付きっきりに居ることはできません。
お互いが支え合えたからこその、奇跡だと思っています。

なに一つ、当たり前ではない。
私にとって、初代会長様のことが頭に浮かんだことが、何より有難く思います。

今、次女は、ほぼ回復し、元気にしていますが、初代会長様、引いては、その親である豊能分教会の初代会長様の気持ちが、ほんの僅かながら、垣間見れたように思います。

親々があってこその、私達家族だなぁと思います。

おさしづに、
尽した理は将来末代という理である。人間というは、一代と思うから頼り無い。理は末代の理。これをよう聞き分けて、しっかり治めてくれ。尽した理は、将来末代の理に受け取りてある。理消えやせん程に。理は十分の理である。これを楽しんで、一代の理に悔やしいと思うやない。これをよう聞き分け。人間というは、早い者もあれば遅い者もある。どんな者もある。これを聞き分けて心に満足せい。たんのうが第一である。これを前生いんねんのさんげと言う。これを聞き分けて、何も思うやない。(明治三十七年十二月三十一日)

とお教え下さいます。
教祖年祭活動三年千日の始めに、このように、初代会長様親子の歩みを垣間見させて頂けたことを心に治め、夫婦共々に、着実な歩みを進めていきたいと存じます。

ご清聴ありがとうございました。

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: 明治三十七年のおさしづ(公刊おさしづ第六巻より) https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/431225777.html

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2023年01月04日

立教186年・春季大祭神殿講話

立教186年・春季大祭神殿講話





ただいまは当教会の春季大祭を勇んでつとめ終えさせて頂きまして誠にありがとうございます。

ひと言お取次ぎさせて頂きます。しばらくお付き合い下さい。

柏手

改めまして、新年あけましておめでとうございます。
本年は、教祖百四十年祭に向かう三年千日の一年目になります。
年祭活動とか、三年千日という表現がピンと来ない方も多くいらっしゃると思いますので、端的にお伝えさせて頂きたいと思います。

天保九年(西暦1838年)十月二十六日、教祖・中山みき様が月日のやしろと定まられ、この教えが始まりました。
その後、明治二十年(西暦1887年)陰暦正月二十六日に現身を隠されるまでの約50年間、教えを伝え続けて下さいました。
この五十年間の教祖の歩みを、「ひながた」と言います。
ひながたとは、お手本、人間の理想の生き方という意味です。

その歩みは、田地持ちと歌にまで歌われるほどの豪農であった中山家の家財道具を人に施して貧に落ちるところから始まり、その貧しさは、明日炊く米も無いという日もありました。
その後、安産の守りである「をびや許し」からたすかる人が現れ、教えが広まり始めました。安産だけでなくあらゆる病もたすけられましたので、非常に多くの人々がお屋敷に集まるようになりましたが、人が集まるようになると、近隣の寺社仏閣から反対運動が起き始めます。
更に明治に入ると、天皇を中心とした国家神道を推し進めたい政府と、教祖の説かれる人類は等しく神の子どもであるという教えとが対立し、厳しい迫害干渉を受けることになります。警察署や監獄署へ御苦労下されたことは、十七、八度に上ると言われます。
この迫害干渉の中、お子様方は先立たれて行かれます。勾留中にお出直しされ、その死に目に会えないということまでありました。
このような厳しい迫害干渉の中にあって、教祖はどこまでも、この世の真実の親を教えられ、その御守護を体現するおつとめをつとめることを急き込まれました。
しかし当時、身近に居られた方々にとって、おつとめをつとめれば自分自身はもちろん、ご高齢の教祖も拘留を受ける。その怖れから、なかなかつとめに踏み切れずに居られました。
そして明治二十年陰暦正月二十六日、何よりも頼りとしている教祖の身上が迫り、その身上回復を願い、「我が身どうなっても」という覚悟でおつとめをつとめられ、そのおつとめが終わる頃、教祖は現身をお隠しになりました。

五十年の教祖の歩みを簡単にまとめれば、以上のようになります。
この歩みがひながた、人間の理想の生き方のお手本だと言われて、どうお感じになるでしょうか?
自分にはとても真似できないと思うのが普通でしょうし、あるいは、幸せになるため、身体や心の救いを求めて信仰しているのに、そんなツラい人生を歩まなければならないのかと、疑問に思われる方も大勢いらっしゃると思います。

しかし、そういうことではありません。

この客観的に見て、誰がどう見てもツラく苦しすぎる人生の中にあって、教祖の主観的な御心はどうであったか、それを真似するのが、ひながたを辿るという意味です。

明日炊く米もないという日には、「水を飲めば水の味がする」と健康な身体は親神様の大いなる御守護によるものだという、生かされている喜びを教えられ、また、監獄に拘留中の明け方、机の上で火がついたままになっていた置きランプの火を吹き消したところ、見張りの巡査はフト眼をさまし、何をするのかと大声でとがめましたが教祖はニコニコとして、勿体ないと思いましたので消しましたと、もの静かにおっしゃりながら元の座におつきになり、どんな中でも御守護への感謝を体現されていました。
またお子様に先立たれた時も、額を撫でて、「可愛相に、早く帰っておいで。」と、長年の労苦を犒われ、魂の生まれ変わりを教え、何も悲しむことは無いとお示し下さいました。
また、「ふしから芽が出る」と常におさとしになり、周囲の人々を励まされ、その言葉通り、ふしの度毎にこの道を信仰する人は増えていきました。

教祖は、このように言葉にも言い尽くせぬ数々の御苦労の道すがらも、明るい心でお通りになりました。
ひながたを辿るという上で最も大事なのは、この、どんな中でも明るい心で通られたということです。
人生には、誰にでも、ツラく苦しい出来事が、多かれ少なかれ起ります。
その時に、教祖なら、どう考えられるだろうかと、少し立ち止まって思案してみることです。
何も心配することはありません。
教祖は、人間に起こり得るであろう不幸を、全て先にお通り下されています。
その時その時の明るく陽気な御心、お言葉も全て残っています。
あとは本当に、真似をするだけで良いんです。
そしてそれが、難しいんです。

そんな時は、こんな事実を思い出して下さい。
教祖は明治二十年陰暦正月二十六日、現身をおかくしになりましたが、魂は永久に元の屋敷に留まり、今尚存命同様の守護をもって世界一れつのたすけにお働き下されています。
人生に起きた、ツラく苦しい出来事。それを教祖のひながたを頼りに真似してみようと思ったけれど、とてもそんな心になれない。
そんな時は、教会のお社に、御本部の教祖殿で、教祖に想いの丈をぶつけて下さい。
私は、何度そうしたか解りません。
教祖殿の外廻廊にある無数のシミは、参拝者の涙です。
私の涙も、そこにいくつも染み込んでいます。
そしてその後は必ず、明るく勇ませて貰える出来事に出会います。
そうして自分が救われたと感じたなら、人にその喜びを伝えていく。
そんな一歩一歩の地道な歩みが、ひながたを辿り、人間が本当に幸福に生きていく術なのだと思っています。

おさしづに
口に言われん、筆に書き尽せん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道が無いで。
(明治二十二年十一月七日 午後十時四十分 刻限御話)

とお教え下さいます。

それぞれのお立場で、先ずは別席などでひながたを学び、ようぼくとなって教えを実践し、病む人にはおさづけを取り次ぎ、更に人に伝えてその輪を広げていく、そんな三年間を着実に歩ませて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
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2022年12月01日

立教185年・十二月月次祭神殿講話

立教185年・十二月月次祭神殿講話





ただいまは、当教会の本年納めの月次祭を、勇んでつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

先月末、嘔吐を伴う、非常に激しい身上御手入れを頂きましたので、神殿講話というよりは、ご挨拶だけになりますが、ひと言、お取次ぎさせて頂きます。
しばらくお付き合い下さい。

柏手

今年は、お出直しが大変多く、豊田山舎へも、享年百歳越えのご婦人のようぼくを御二人納骨させて頂きました。
一度目は4月。事前に納骨堂事務所へは納骨の儀をつとめること以外、何の連絡もしていませんでしたが、10年前に出直された旦那さんの骨壺と一緒に祭壇に並べて下さり、あまりの感激に、ご遺族と共に涙を止めることができませんでした。
二度目は9月。四月の経験がありましたので、38年前に出直された旦那さんが納骨されているので祭壇に一緒に並べて頂きたい旨、事前に事務所にお願いしていました。すると当日さらにもう一つ、こちらが把握していなかった、旦那さんのお母様の骨壺も一緒に並べて下さいました。しかも骨壺が納められている木箱の文字はそれぞれ、私、父、祖父。三世代の筆が並びました。父と私の字はあまり似ていませんが、祖父の字は、父にも私にも似ていました。豊田山舎のあまりにも大きな親心に浴し、放心状態になりました。
出直しという教えがあり、人の死は悲しむものでは無いと知ってはいても、やはり寂しさは拭えません。そんな気持ちを、大きく包み込んで下さる豊田山舎という親心溢れる存在の安心感は、表現のしようもありません。
特に9月の納骨は、血縁も信仰も無いご遺族でしたが、納骨後のおぢば案内を達てご希望下さり、笑顔で御帰宅下さいました。

つくづくと、信仰の有難さ、おぢばの親心を感じます。

さて、諭達第四号に「親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが末代へと続く道となるのである。」とお示し下さいます。
私達の歩みは、直接の子孫ではなくとも誰かに、この信仰を受け継いでいく、駅伝のような繋ぎ合いの一区間を任されているのだと思います。
上り坂もあれば、下り坂もある。誰一人として、同じ道は無い、けれども、一本の道である。そして誰一人欠けても、繋ぎ続けることは出来ない、掛け替えのない役割を与えられています。

信仰は、伝えようと実働する分だけ、自分の心、自分の魂に根差して行きます。
前会長である父も今年出直しましたが、父から受け継いだ信仰を、出来る限り多くの人に伝え、そんな実働を以って根差した私の心が、子ども達に映って行けば良いなと思う今日この頃です。
皆様には、来年も父の生前同様、変わらず、当教会に、お心寄せ頂き、それぞれのご家庭、それぞれのお立場で、信仰を繋ぐ一歩一歩の積み重ねを御継続頂ければと存じます。
長年にわたり、父が大変お世話になりまして、誠にありがとうございました。

最後に、おさしづを引用して、終わらせて頂きます。
人間と言うというは、一代と思うからどうむならん。人間生まれ更わり、この理聞き分け。めん/\尽した理は無くならせん。尽した理は、日々皆受け取ったる。この楽しみ諭してくれ。
明治三十八年十二月十三日

ご清聴ありがとうございました。

柏手

<天理教勉強blog内関連記事>
天理教勉強blog: おさしづ補遺(明治三十八年)(公刊おさしづ第七巻より) https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/432183104.html
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