立教186年・6月4日 講話
ただいまは、6月の寮祭を、勇み心一入につとめ終えさせて頂きまして、誠に有り難うございます。
順番が回って来ましたので、一言お取り次ぎさせて頂きます。しばらくお付き合い下さい。よろしくお願いいたします。
柏手
2ヶ月、大阪の街をお歩きになって、いかがでしょうか?
大阪の街の特徴みたいなものは感じておられますでしょうか?
テレビなど、世間一般には、大阪の街の特徴、例えば、おばちゃんはみんなヒョウ柄を着ているとか、お好み焼きと白ご飯が一緒に出てくる「お好み定食」が定食屋さんの定番メニューだとか、一通りしゃべった後に、「知らんけど」を付けるとか、色々言われておりますが、まぁ、ハッキリ言って、そんな特徴はほとんど見付けられないと思います。
これらの特徴は、大阪でも一部の地域、ごく少数の方に見られる特徴であって、大阪のスタンダードではありません。でもそれを、テレビなんかで、それがスタンダードかのように、誇張して伝えられているのが現実です。言わば、作られた特徴ですね。本当のところは、知らんけど。
ただ、それでも強いて特徴を挙げるとすれば、狭い面積の中に、多様なルーツを持った方が住んでいるということだと思います。
例えば東京だって、大阪より多様な特徴、ルーツを持った人が住んで居ますが、それぞれの居住地域が離れがちなので、その多様性に気付きにくいと言えます。
大阪の場合は、居住地域そのものがかなり近距離なので、少し歩けば、多様性を目の当たりにすることになるわけです。
この教務支庁があるのは、大阪の中でも有数の高級住宅街。しかし西にも東にも、この上町台地を下れば、低所得の方が多く住まう地域があります。在日コリアンの方が多い地域、被差別部落だった地域、沖縄ルーツの方が多い住まう地域などありますが、全て、ここから歩いて行って、戸別訪問百軒以上回っても、帰寮時間までに十二分の余裕を持って帰って来れる距離にあります。
実は地域的特徴は別れているのに、距離が近い為に、多様性が高いように見えてくる訳です。
ですから、大阪以外の地域と同様に、マイノリティに対する差別もありますし、同時にその分、本当に多様な方が全国から集まる素地もあると言えます。
私のおたすけ相手の方で、レックリングハウゼン病だった方がいらっしゃいました。
大阪の街では時々見掛ける、非常に特徴的な見た目の病気です。その見た目から、差別の対象になってきた歴史がありますし、親族家族も、隠そうとされることが多いせいか、大阪以外でお見かけすることは、ほとんどありません。
その点、大阪は、先ほど申しましたように、多様性を受け入れているように見える地域ですから、この病気の方々も、他の地域に比べて、かなり多くお住まいなんだと思います。
これが、レックリングハウゼン病の方の写真です。
おたすけ相手の方、Mさん御本人の御言葉を借りると、「イボガエル」のような見た目が特徴の病気です。
見た目を除けば、他人に感染する訳でもなく、特に支障はありません。
稀に知的障害を伴ったり、さらに稀に、癌化することがある程度です。
Mさんも、出会った頃は、ちょっと知的に障害があるかなぁと見受けられましたが、療育手帳も受けず、普通に働いておられました。
お出会いしたのは、20年以上前になります。
当時、私どもの教会の普請がありまして、その普請の間、近くのお宅をお借りしていたのですが、そこにはお風呂が無かったので、銭湯に通っていました。その銭湯で、私の母と、Mさんの奥さんとが出会い、仲良くなって、教会にお越し下さるようになったのが、きっかけです。
奥さんには明らかな知的障害があって、療育手帳も受けておられました。
こうしたハンデのあるご夫妻でしたが、旦那さんは普通に働き、小さいながら、マイホームを建てて暮らし、教会のひのきしんに通って下さり、穏やかな生活をされていました。
私の会長就任奉告祭にも参拝して下さいましたし、教祖130年祭の年祭活動中に、初席だけですが、別席も運んで下さいました。この、別席を運ぶ際に、奥さんは、誓いの言葉の文字も読めないということが解りました。それでも、旦那さんの隣で、真似をして、お誓いをして下さいました。
本当に、穏やかなご夫婦でした。
そんなご夫妻に異変が現れたのは、今から7年前の秋のことです。
まず、私達教会の者にはナイショで、猫をツガイで飼いはじめられました。私達に言うと、怒られると思ったからだそうです。
別に猫を飼うくらい反対しませんし、一言言って下さっていたら、避妊手術などアドバイスできたのですが、たった2匹から始まった猫は、あっと言う間に増え、近所から苦情が来る程の猫屋敷になり、猫は猫で自分の子を育てられず、生まれたばかりの子をオモチャのように放り投げて遊ぶような、見るに堪えない状況になりました。
さらに時を同じくして、旦那さんのレックリングハウゼン病でできていた胸の腫瘤がどんどん大きくなりはじめました。めったに起きない、癌化が始まっていたんです。
私達教会の者としては、まず病院に行って貰いたいのですが、頑なに行って下さいません。
手をこまねいている内に、旦那さんの胸の腫瘤は頭と同じくらいの大きさになり、体液も流れるようになり、それに古いシャツを巻き付けて抑え、肉の腐ったような、強い臭いを放つ状態になってしまいました。
なぜ、この状況で、病院に行って下さらないのか?
元々病院嫌いということもありますが、猫のこと、そして何より、奥さんは、銀行でお金を引き出すこともできず、放っておいたら、生活できない。今病院に行ったら、確実に入院することになるだろう。そんな状況を置いて、病院には行けないとのことでした。
そんな切羽詰まった状況の中、ようやく、Mさんの御実家である和歌山県にお住まいの、Mさんの姪ごさんと連絡がつき、ご親族として、猫の処分、奥さんにケアマネージャーを手配して下さいました。
6年前の7月のことです。
そして、8月7日、ケアマネさんとの初面談を見計らって、事前に近所の皮膚科を受診し、大きな病院を紹介して貰おうと、本格的なおたすけに動き出すことにしました。
ケアマネさんとの面談に同席させて頂き、早速、下調べしていたクリニックに電話してみたところ、午後の診療は予約のみ、12時半までに行けば午前の診療で受け付けると言われました。時計を見ると、11時45分。大急ぎで診療所へ向かいました。
この後から、途方もない苦労が始まるのですが、このクリニックにかかれたことが、大いなる奇跡の始まりでもありました。
まず、今まで古いシャツで体液を抑えていたものを、紙オムツで対処しようとご提案下さり、また、往診もして下さることになりました。
ご出身の大阪市立大学附属病院に紹介状を書いて下さり、早速、受診することになりました。
日を置かずしてすぐに、天王寺にある大阪市立大学附属病院の皮膚科を受診したんですが、開口一番、「うちでは診れません」と。
で、また後日、同じく大阪市立大学附属病院の整形外科を受診することになりました。
整形外科でも患部の写真を撮ったり、触診されたりしていましたが、やはり同じく、「うちでは診れません」と。
で、皮膚科でも、整形外科でも、はじめに言われることは、「お前は誰やねん」です。名刺を出して立場を説明して、半信半疑な様子で、接しられる訳です。
整形外科では、「天理教の信仰をされているのであれば、天理よろづで診てもらってはどうですか?」と言われ、また後日、憩いの家を受診することになりました。
それまでの間、最初に受診したクリニックから、「レックリングハウゼン病は難病だから、申請すれば医療費の補助が受けれる」と言われ、区役所に通ったりもしました。この時点では、細胞の生検が後回しでしたので、後日、申請しますということで、見込みの受付を済ませました。
憩いの家には、8月23日に受診しました。
ここでなら、きっと何とかして貰える。という期待と、もし無理だったら、もうどうにも出来ないという不安の入り交じった気持ちで、Mさんをお連れしました。
診察室に入り、担当医の先生は、ベッドの上でMさん服、体液を抑えていた紙オムツを外し、ザッと眺めて、「うちでは診れません」と仰り、再び服を着せはじめられました。
すがるように、「治療はできませんか?」と尋ねると、「これも治療です」と返されました。
私の心に浮かんだのは、絶望、その一言でした。
しかしせっかくですので、受診後、おぢばを参拝し、待合室に続いて、ご本部参拝場でもおさづけを取り次がせて頂き、大阪へ帰って来ました。
その帰りの車の中で、Mさんが仰いました。
「元気になったら、また、お話、聴きに行きます。途中で止まってて、申し訳なかった」と、別席を運びたいと。
嬉しかったです。嬉しかったと同時に、いや、今、それどころやないやろう、と。顔は笑顔を取り繕っていましたが、心の中は、ぐちゃぐちゃにかき乱されていました。
最初に受診したクリニックに報告し、何度かやり取りをしましたが、私の心の中は、諦めの気持ちが、どんどん大きくなってきてしまっていました。
やり取りの中で、クリニックの方は、とにかく受け入れていくれる病院を手当たり次第に探したいから、東京とか、遠方になっても良いかと聴かれました。
私自身はやぶさかではありませんが、Mさんは和歌山で生まれ育ち、中学卒業後、ずっと大阪で働いて来られた方です。万が一、途中で何かあった時、できるだけ、故郷や慣れ親しんだ地域の近く、関西で探して貰った方が良いと思う、と、口をついて出ていました。
こんなやり取りをしながら、クリニックの方が諦めずに頑張り続けて下さっていることを思い知り、諦めかけている自分が、おたすけ人として、本当に申し訳無かったと思いました。
そして心の中に、逸話編の「子供が親のために」のお話を思い出しました。
「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」
その足でMさんのお宅に伺い、「諦めたくないですよね」と声を掛け、もう、蛆がわき始めているMさんの胸におさづけを取り次ぎました。
翌日、大阪国際がんセンターが受け入れてくれそうだから、受診して欲しいと、クリニックから連絡がありました。
また、「お前は誰やねん」から始まりましたが、ここで初めて、精密検査をして下さいました。
検査の結果を伝えられる際、「今から、大変、重いことをお伝えしなければなりません。本当なら、ご家族、ご親族にしか伝えられません。この人に、聞いて貰っても大丈夫ですか?」と何度も念を押され、Mさんからハッキリと、「聴いておいて貰いたい」と言って頂けたので、私も伺うことになりました。
曰く、
表面の腫瘤は、ガンです。それが、肺にも拡がっています。
表面に大きくなってきているのと同じスピードで肺のガンも大きくなり、3ヶ月程度で呼吸が止まります。
表面に見えている腫瘍を取らなければ、どこも受け入れてはくれないと思います。
この病院は、ガンの急性期の方ばかりの病院ですので、今のように、体液が流れ、蛆がわいているような雑菌だらけの状態の方を、免疫力が落ちた方々と一緒に入院させることはできません。
そして、この表面の腫瘍も、取れるものなのか、取っても大丈夫なものなのか、さらには、取れたとしても、皮膚を移植するにも、皮膚の難病がある中で、体のどこから移植できるか、それも解りません。
それでも、何とかしないと、どうしようもないので、検討させて下さい。
手術できるかどうかは解りませんが、とりあえず、提携している病院に入院して下さい。
とのことでした。
その日の夜から、大東市にある病院に入院されることになり、奥さんは、私共の教会とご自宅を行き来する、半住み込みのような環境で過ごされました。
夜は、奥さんと妻が一緒に寝るようにしていましたが、夜中に突然泣き出されることもあったようです。
大東市の病院には、最初の手筈を整えて下さった姪ごさんが家族でお見舞いにお越し下さり、今後のことを相談しました。
また、奥さんのごきょうだいも教会にお越し下さいましたが、Mさんご夫妻以外は誰も天理教をご存じない方々でしたから、訝しげなご様子でした。
1週間程して、大東市の病院が来て欲しいと言っていると、ご親族から連絡がありました。
ですが、何時に行けば良いかも解らず、とりあえず、昼前に着くように準備して、奥さんをご自宅へ迎えに行こうとした所に、大東市の病院から電話があり、転院なのに、まだ来ないのかと、言われてしまいました。
そんなことは、一言も聴いてない!
その理不尽な応対にブチギレてしまい、怒鳴ってしまいました。
振り返って考えれば、誰も受け入れたく無いような方を受け入れて、お世話取り下さっていることに対する感謝の心があまりにも薄かったのだと、心から反省しています。
直接お会いしたことも無い方で、謝罪のしようもありませんが、この話を人にする度に、その場を借りて、お詫びしています。
今回も、この場をお借りして、謝罪させて頂きます。
誠に申し訳ありませんでした。
転院後は、スムーズに手術もして頂け、胸の腫瘍は切除され、人工皮膚でカバーして下さいました。毎日、おたすけに通わせて頂きながら、様々な手続きをお手伝いさせて頂きました。難病申請には皮膚から細胞を取って遺伝子検査をする生検が必要でしたが、クリニックの先生から、「明らかにレックリングハウゼン病で間違いないから、時間もないし、私が責任持つから、生検無しで申請しましょう」と言って下さり、難病申請も無事に済みました。また、生命保険の手続き、奥さんの今後の生活を考えて、生活保護の申請相談にも付き添いました。結果的には、生活保護の受給無しで、生活を維持できておられます。
その後Mさんは、9月19日に退院し、姪ごさんご夫妻に連れられて、和歌山の御実家に戻られました。
また、奥さんも、ごきょうだいと私とで、家の片付けをし、こちらも、和歌山の御実家へ戻られました。この頃には、奥さんのごきょうだいも私達教会の者を信用して下さるようになり、教会で参拝もして下さいました。奥さんのお姉さんは、お寺の奥さんなんですけどね。
後日、ご自宅は、ご親族の手続きで、不動産屋さんへ、無事に売りに出すこともできたそうです。
その後、和歌山でのご生活が落ち着かれたら、1度おたすけに伺いたいと思っていましたが、一方で余命僅かとも解っていましたので、早すぎも、遅すぎもしない日程を思案していました。
10月に入り、姪ごさんと相談しはじめておりましたが、10月6日、もう長くないようなので、早めに来て欲しいと告げられました。和歌山の御実家は、かなりの山奥にあり、当時教会にあったワゴン車では通行が難しいと下調べしておりましたので、大教会の当番日でしたが、慌てて10月7日のレンタカー予約を入れました。ネットでの受付は締め切られてしまっていましたが、電話で直接店舗に問い合わせると、何とか、軽自動車を予約することができました。
大教会の役員先生にも報告し、朝の神殿掃除と献饌が終わり次第、朝づとめは勝手させて頂き、大阪へ戻らせて貰えることになりました。
準備万端。
後は、寝るばかりとなった、午後10時、姪ごさんから、今、亡くなったと電話が入りました。
準備はできておりましたので、先ほど申しました予定通り、献饌が終わり次第大阪に戻り、レンタカーを受け取って、母を乗せ、和歌山の御実家へ向かい、お悔やみさせて頂きました。
8月7日から、10月6日までの、僅か2ヶ月間のおたすけが、終わりました。
ほとんど毎日のようにおさづけを取り次ぎ、目に見えるご守護は無かった訳ですが、クリニックの看護師さんからは何度も何度も、いつ敗血症を起こして亡くなってしまうかも解らないと言われていたところを、1度もそんな気配すらなく、また、何度となく病院から受け入れを断られ続けていながら、神様のレールに乗り始めれば、その後は何の心配もなく、御実家の布団の上で、御親族に囲まれて出直されていったことは、間違いなく、奇跡的なご守護だとも思います。
後日、姪ごさんからお手紙を頂きました。
一部読ませて頂きます。
結局、Mさんはようぼくになれずに出直されてしまいましたが、天理教のことなど何も知らない御親族に、精一杯、教えを伝えて下さっていたのだなと思います。
さて、ここに居る私達は全員、おさづけを拝戴したようぼくであり、中でも、教えを伝えて、ようぼくを増やし育てる信念を持った、布教師です。
しかし、Mさんのように、おたすけ人として、私なりにではありますが、命懸けでおたすけさせて頂いた方が、しかも、心からようぼくになりたいと願って下さった方が、ようぼくになれずに出直されて行く現実もあります。
実は去年、Mさんのお出直し後、初めて、夢にMさんが出てきてくださいました。
Mさんと、もう一人、若い、こちらも障害があるのか、歩くのがゆっくりな女性をお連れして、3人で別席場に向かっている夢でした。
もう一人の女性があまりにゆっくりなので、Mさんに先に別席場へ向かって貰いましたが、受付時間に間に合わず、締め切られてしまいました。
別席場一階の隅で、Mさんは座り込んでしまわれました。
私はダメ元で、もう一人の女性を連れて受付を懇願したところ、「ナイショですよ」と受付て下さいました。
女性を初試験場へ送り出し、Mさんに、「ナイショだけど受付て貰えるみたいですよ」と声をかけたところ、「いや、もう良いです」と、うずくまってしまわれました。ふと辺りを見ると、Mさんと同じように、うずくまっている方が、数えきれないほどたくさんいらっしゃる姿を見たところで、目が覚めました。
現実には、別席場受付での、こんな受け答えはあり得ません。
しかし、Mさんと同じように、願い出ていながら、別席を運び、おさづけを拝戴することが出来ない方が、物凄くたくさんいらっしゃるというのは、これは、間違いなく事実だと思うんです。
私達布教師は、おたすけをし、そのたすかって頂いた方に、おさづけを拝戴してもらい、今度は人をたすける行いをして行って貰うのが、使命です。
ようぼくとは、陽気ぐらし世界という建造物の木材になることです。
たくさんのようぼくが寄り集まり、陽気ぐらし世界という建造物が出来上がっていく訳ですが、こんなに遅々とした歩みで、陽気ぐらし世界なんて、できるのかと、考えてしまうかも知れません。
しかし私は、こんな経験をしていながらも、いや、間違いなくできると、信じています。
それは、この絵本にあります。
秀司様、こかん様が見て居られたのは、見渡す限りの田園風景です。
当時、教祖の御言葉に、「屋敷の中は、八町四方と成る」とか、「廊下の下を人が往き来するようになる」とか、「何ないという事のない繁華な町になる」とか、現在の姿を予言されていた御言葉はたくさんありますが、それを、具体的なイメージで想像できていた人は、おそらく一人も居なかったと思うんです。
私達が、現在の神殿、参拝場を見ながら、当時の田園風景が想像できないなんていうのとは、完全に別次元の想像力が必要だからです。
想像もできない予言が、現実になっている。しかも、私達はそこに、当たり前のように立って居るんです。
こうした事実を享受しておきながら、ちょっとくらいうまく行かないおたすけがあっても、陽気ぐらし世界が実現しない、実現するのは至難の技と言える訳がありません。
とは言え、にをいがけ・おたすけには、ツラいこと、苦しいことも、数知れずあります。
しかしまずは、ようぼくという立場を与えられていることは、非常に珍しい、有難いことなんだと知っておいて下さい。
私達は、万人の中から選ばれた存在なんです。
もう出直されてしまいましたが、この、布教の家大阪寮の寮長をかつてつとめられた、竹川俊治という先生がいらっしゃいました。
大阪、日本はもとより、海外へも布教線を伸ばした、伝説の布教師です。
私の両親の仲人でもありますので、竹川俊治先生が居なければ、私は生まれても居なかったかも知れません。
竹川先生が晩年、青年さんの運転する車で、おたすけに回る際、時々、胸ポケットに入れたメモ書きを眺めて居られたそうです。
そこには、
「私は万人の中から選ばれた天理教の誠のおたすけ人ではないか!
俺がやらずして、一体だれがやるのか!」
と書かれていたそうです。
伝説の布教師であっても、おたすけには、きっと、不安がいっぱいあったんだと思います。
だから、こうした言葉で、御自身をふるい立たせて居られたのだと思います。
ようぼくという立場は、当たり前ではありません。
万人の中から選ばれた存在です。
願ってもなれなかった方が、数知れずいらっしゃいます。
今も、これからも、自分自身の身体をお返しするその日まで、イチようぼくとして、その使命を全うさせて頂きたいと存じます。
おふでさき第七号
015 これまでもなんでもよふ木ほしいから たいていたづねいたるなれども
016 このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり
017 このきいもたん/\月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや
018 それからハにち/\月日みさだめて あとのよふ木のもよふばかりを
019 それよりもひねた木からたん/\と ていりひきつけあとのもよふを
020 にち/\に月日をもわくふかくある をなじところに二ほん三ぼん
021 この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく
022 このあといなにのはなしをするならば よふ木のもよふばかりゆうなり
023 よふ木でも一寸の事でハないからに 五十六十の人かずがほし
024 このにんもいつ/\までもへらんよふ まつだいつゝききれめなきよふ
天理教勉強blog: おふでさき第七号。
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/388474788.htmlご清聴有り難うございました。

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