2017年05月08日

天理教教典・第三章 元の理

第三章 元の理

 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つつたなら、 宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

   月日よりたん/\心つくしきり
   そのゆへなるのにんけんである      六 88

  このよふのしんぢつの神月日なり
   あとなるわみなどふくなるそや      六 50

   にんけんをはぢめよふとてたん/\と
   よせてつこふたこれに神なを       六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな
  くにとこたちにをもたりさまや         一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

  月日にわせかいぢううをみハたせど
  もとはじまりをしりたものなし        一三 30

  このもとをどふぞせかいへをしえたさ
  そこで月日があらわれてゞた         一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで         四 55

  このよふをはぢめだしたるやしきなり
  にんけんはじめもとのをやなり         六 55

  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから         六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

  この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢさいを         八 47

  このはなしなんでこのよにくどいなら
  たすけ一ぢようけやうのもと          八 48

 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり          四 62

  せかいぢう神のたあにハみなわがこ
  一れつハみなをやとをもゑよ          四 79

  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんというわさらにないぞや        一三 43

と教え、更に又、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから        一四 25

  せかいにハこのしんぢつをしらんから
  みなどこまでもいつむはかりで        一四 26

  このさきハせかへぢううハどこまでも
  よふきづくめにみなしてかゝる        一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想であ る。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつ けられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。


  ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
  あしきのことはいはんでな
  このよのぢいとてんとをかたどりて
  ふうふをこしらへきたるでな
  これハこのよのはじめだし






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2017年05月05日

天理教教典・第二章 たすけ一条の道

第二章 たすけ一条の道

  月日にハせかいぢうゝハみなわが子
  たすけたいとの心ばかりで           八  4

 親神は、一れつの人間に、陽気ぐらしをさせたいとの親心から、教祖をやしろとして表に現れ、よろづいさいの真実を明かして、珍しいたすけ一条の道を教えられた。

  つとめてもほかの事とわをもうなよ
  たすけたいのが一ちよばかりで        一六 65

 この親心から、よろづたすけの道として教えられたのが、つとめ一条である。

  このよふをはじめかけたもをなぢ事
  めづらし事をしてみせるでな          六  7

  このよふをはじめてからにないつとめ
  またはじめかけたしかをさめる         六  8

 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによって、この世は、思召そのままの陽気 な世界に立て替ってくる。

  つとめでもどふゆうつとめするならば
  かんろふだいのつとめいちゞよ        一〇 21

 このつとめは、かんろだいをしんとして行う。

  にんけんをはじめかけたるしよこふに
  かんろふたいをすゑてをくぞや        一七  9

 かんろだいとは、人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。

  しんぢつのつとめの人ぢう十人の
  心を神がうけとりたなら            六 18

  それからハどのよな事もたん/\と
  神のをもわくみなときゝかす          六 19

  にち/\に神の心わせゑたとて
  人ぢう十人そろいなけねば           六 20

 このつとめは、又、かぐらづとめとも教えられ、親神の創造の理をかたどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合せて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあらわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、その守護を祈念するつとめである。

  みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる          一 11

 つとめ人衆が、親神にもたれ、呼吸を合せてつとめる時、その心は、自と溶け合うて陽気になり、親神の心と一つとなる。この一手一つに勇む心を受け取つて、親神もまた勇まれ、神人和楽の陽気がここに漲る。

  またさきのよふきづとめをまちかねる
  なんの事ならかぐらつとめや          四 29

 かぐらづとめは、又、よふきづとめとも仰せられる。まことに、よふ きづとめは、親神の思召さながらの陽気をたたえて、その成就を祈願するつとめである。

  どのよふなたすけするのもみなつとめ
  月日ゆうよにたしかするなら          七 83

  しんぢつの心あるなら月日にも
  しかとうけやいたすけするぞや         七 84

 つとめ人衆が、思召通りに陽気につとめる時、親神は、その真心を受け取つて、自由自在の守護を現される。

  このつとめせかいぢううのたすけみち
  をしでもものをゆハす事なり          四 91

  にち/\にはやくつとめをせきこめよ
  いかなるなんもみなのがれるで        一〇 19

  とのよふなむつかしくなるやまいでも
  つとめ一ぢよてみなたすかるで        一〇 20

 されば、よふきづとめは、又、たすけづとめとも教えられ、いかなる願もかなえられるつとめである。

  たすけでもあしきなをするまてやない
  めづらしたすけをもているから        一七 52

  このたすけどふゆう事にをもうかな
  やますしなすによハりなきよに        一七 53

 たすけづとめは、ただ、身上のさわりや、災難や、苦悩をたすけるつとめであるばかりでなく、進んでは、病まず、死なず、弱らない、珍しい守護をなされるつとめである。

  しんぢつの心しだいのこのたすけ
  やますしなずによハりなきよふ         三 99

  このたすけ百十五才ぢよみよと
  さだめつけたい神の一ぢよ           三 100

  そのゝちハやまずしなすによハらすに
  心したいにいつまでもいよ           四 37

  またさきハねんけんたちた事ならば
  としをよるめハさらにないぞや         四 38

 人々の心が澄みきって、真実の心となつた暁には、たすけづとめによって、甘露を授けられる。これを頂けば、人は、よく百十五歳の定命を保ち、なお、心次第によっては、いつまでも生きさせてやろうと教えら れる。

  このつとめなにの事やとをもている
  せかいをさめてたすけばかりを         四 93

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる        一四 92

 このつとめは、人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵を及ぼすつとめである。
 ここに、恵は遍く一れつに及び、人類は、ひとしく親神の子として、兄弟姉妹であることに目覚め、互に立て合い扶け合うて、世界は、一つ心の陽気ぐらしの世と立て替る。
 親神は、更に又、いき・てをどりのさづけによつて、身上たすけの道を教えられた。

  このさきハなんほむつかしやまいても
  いきとてをどりみなたすけるで        一二 50

  どのよふなむつかしくなるやまいでも
  これなをらんとゆうでないぞや        一二 51

 即ち、さづけは、親神が一名一人の心の真実を見定めて、たすけ一条のために渡される、こうのうの理である。人々が、授かつたその日の心を生涯の理に治めて、陽気普請のよふぼくとなり、天の理を取り次がせて頂くところ、親神は、願う心の誠真実を受け取り、自由自在の守護をもって、いかなる難病をもたすけられる。さづけの理は、たすけ一条を誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であって、この理をうけて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは相ついで現れる。
 まことに、つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の道である。これによって、病の根は切れ、あしきは祓われて、世界は陽気によみがえる。
 かくて、世界人類は、親神の篤き守護をたたえて、心ますます勇み、親神は、又、これを受けて、恵は、いよいよ深く、ここに、神人は共に和楽して、陽気溢れる世界が、この地上に実現される。


  あしきをはらうてたすけせきこむ
  いちれつすましてかんろだい






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2017年01月09日

天理教教典・第一章 おやさま

天理教教典・第一章 おやさま

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

  よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから         一  1

  そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや         一  2

  このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする         一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。 それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聽かされる。

  いまなるの月日のをもう事なるわ
  くちわにんけん心月日や           一二 67

  しかときけくちハ月日がみなかりて
  心ハ月日みなかしている           一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、 日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の 働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。
 更に、教祖は、

  このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ          一 21

  せめるとててざしするでハないほどに
  くちでもゆハんふでさきのせめ         一 22

  なにもかもちがハん事ハよけれども
  ちがいあるなら歌でしらする          一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

  だん/\とふてにしらしてあるほどに
  はやく心にさとりとるよふ           四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、

 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。            (明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。 そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされ たばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召をうなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

  このさきハみちにたとへてはなしする
  どこの事ともさらにゆハんで          一 46

  やまさかやいばらぐろふもがけみちも
  つるぎのなかもとふりぬけたら         一 47

  まだみへるひのなかもありふちなかも
  それをこしたらほそいみちあり         一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神 などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

  たすけでもをかみきとふでいくてなし
  うかがいたてゝいくでなけれど         三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

  いまゝでも月日のやしろしいかりと
  もろてあれどもいづみいたなり         六 59

  このあかいきものをなんとをもている
  なかに月日がこもりいるそや          六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。
 更に又、

  いまゝでハ月日とゆうてといたれど
  もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打 ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

  こらほどにさねんつもりてあるけれど
  心しだいにみなたすけるで          一五 16

  いかほどにさねんつもりてあるとても
  ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里 ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、 存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。



  にんけんをはじめたしたるこのをやハ
  そんめゑでいるこれがまことや         八 37




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