2017年08月01日

立教180年8月1日・月次祭神殿講話

ただいまは、当教会の8月の月次祭を賑やかにつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

ご存知の無い方も多いと思いますが、去る7月26日、かんろだいにふしをお見せ頂きました。
この件につきまして、思うところをお伝えしたいと思います。少しお付き合いください。

柏手






まず、天理時報にその内容と、内統領先生の談話が掲載されていますので、拝読いたします。

7月26日午後6時20分ごろ、本部神殿結界内への侵入者により、かんろだいの上部が倒されるというふしを見せられた。
その後、定時に夕つとめが勤められた。
夕つとめ後、急遽、本部員会議が開かれ、その席で、真柱様からお言葉があった。引き続き本部員会議で、このふしについてねり合われた。

続いて、内統領先生の談話です。

かんろだいに大ぶしをお見せいただきました。
ぢばにお鎮まりくださる親神様、ご存命の教祖に、ただただ申し訳ない思いでいっぱいです。
月次祭の当日、こどもおぢばがえりの始まる日であり、帰参者の方に心配や動揺をお掛けしていることについて、ぢば近くに勤める者として深く反省し、お詫び申し上げます。
親神様、教祖、ぢばは、その理一つであります。ぢばに据えられたかんろだいは、私たちの信仰の芯であります。そこにふしを見せていただいたことは、私たちの信仰態度が、親神様の思召に沿いきったものなのかどうかを、強くお知らせくだされたものと思案します。
お互い、ぢば一条、神一条の精神を再確認することが必要だと思います。神一条とは、自分の考え方に合わせて、親神様の教えを解釈する姿勢ではなく、教えに自分の考え方を合わせていくことです。そのことを、あらためて胸に治めさせていただきましょう。
現在、かんろだいは、下の二段のみが真座に坐します。明治14年、二段までが造られたかんろだいの石普請が頓挫し、翌年、没収されました。先人たちは、必死にこの道をお通りくださり、今日の姿を残してくださいました。
そのことを思うとき、現在当たり前のようにかんろだいを拝し、おつとめをつとめさせていただいている自分に、慣れや惰性があるのではないかと、反省の意を強く持ちました。
まずは教会本部内々の者から心を治め直し、真摯に親神様の思召をたずね、御心に沿ってつとめさせていただきます。
教内のようぼく・信者の皆さま方も、このふしを”我がこと”と捉えていただき、実の親である親神様にご安心頂けるように、それぞれの心を育てる機会とし、今回のことを活きぶしとさせていただけるように、共々おつとめくださるようお願いいたします。

という内容でございます。
私たち信仰者にとって、礼拝の目標であるかんろだいが倒されたというのは、非常にショックなことです。
私なりにさとり、思うところをお伝えしたいと思います。

まず非常に当たり前のことを申しますが、このようなふしが起こったそもそもの原因は、ご本部の神殿が、1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができるからです。礼拝場に入って真っ直ぐ結界まで進み、少し助走をつけて走り込めば、かんろだいまで誰も止めることは出来ずに入ることができてしまいます。
1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができるという状態は、こういうリスクがある上で成り立っているということです。
そう考えれば、結界侵入やかんろだいに近づくという行為が、これほどショックに感じられるほど滅多に起こらない事象であるということ自体が、むしろ奇跡的なことなのではないかと思うんです。

1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができる。これって、凄く有難いことじゃないですか。
悩んだとき、辛いとき、昼間でも夜中でも参拝できる。これほど心強いことはありません。
私の布教仲間の一人は、深夜にご本部に参拝したことが信仰の元一日だと言っていました。彼は教会の後継者という立場でしたが、お道から離れサラリーマンとして働いていました。しかし仕事で悩み、心が折れてしまった。家族にも職場の人にも何も言わず、ケータイの電源も切って、ただただ車を二日ほど走らせて辿り着いたのが、深夜のご本部だったそうです。今は、心が折れていたとはとても想像もつかない、元気で明るい布教師になって結婚もしています。
深夜にでも気兼ねなく参拝できるという環境にもし無ければ、彼はたすかっていなかったかも知れません。

この有難さは、誰かがかんろだいに不意に近づくというリスクの上に成り立っているんです。
まず、この有難みを味わいたいと思います。
内統領先生は談話の中で、「明治14年、二段までが造られたかんろだいの石普請が頓挫し、翌年、没収されました。先人たちは、必死にこの道をお通りくださり、今日の姿を残してくださいました。
そのことを思うとき、現在当たり前のようにかんろだいを拝し、おつとめをつとめさせていただいている自分に、慣れや惰性があるのではないかと、反省の意を強く持ちました。」と仰っています。
内統領先生の心情を吐露された内容ですが、これは、内統領先生に限らず、すべての信仰者が考えるべきことと思います。
かんろだいを毎日、何の気兼ねもなく拝み見ることができるのは、決して当たり前のことではありません。

さて、内統領先生の談話の中で、「このふしを”我がこと”と捉えて」と仰っています。
これは、「自分には何ができるか?」を考えることであって、必要以上に自分を責めることとは、まったく違います。
今日ご参拝の皆さまにはそんな心配は無いと思いますが、この点勘違いされる方が妙に多いですので、一応補足しておきます。
「自分には何ができるか?」と言っても、実際、できることはほとんど無い訳です。
なので、誤解を恐れずに言えば、あんまり考え過ぎない方が良いのではないかと思います。
人間、考え過ぎると、ろくなことがないですから。
とは言え、少し考えさせていただきたい。
今現在、かんろだいをすえかえられるのかどうなのか、今後の詳細については、まったく知らされておりません。
もし、かんろだいをすえかえられるのであれば、そこには、時間も手間もお金も掛かります。その中で、一信仰者には手間の負担はなかなか難しいものがありますから、お金の面を、わずかでも担わせて貰おうというのも、「自分にできること」のひとつでしょう。
また、先ほどお話したように、かんろだいを拝み見ることができるのは、当たり前のことではなく、非常に有難いことなのだと、今までの心の内を反省して、その有難さを味わうというのも、またひとつです。
そして、かんろだいはよろづたすけのおつとめの目標です。目に見える形でのかんろだいが、物理的に存在しようとしまいと、人のたすかりを願って真剣におつとめをつとめる。これもまた、「自分にできること」のひとつです。
非常に簡単なことですが、こういう「姿勢を正す」という意識こそが大切だと思います。

最後に、私自身のたすかった話をさせて頂きます。
ご承知の通り、私の信仰の元一日は、精神科の閉鎖病棟です。
実は、閉鎖病棟に入院するきっかけの一つは、結界侵入未遂をしたことにあります。
ですので、今回、かんろだいを倒してしまった方のことを、他人事と思えない自分がいます。
本当に、たすかって貰いたいなと思いますし、きっとたすかって頂けると信じています。
結界侵入未遂をしたこの私が、神様にたすけて頂き、現在教会長として日々を明るく陽気につとめさせて頂くことができています。
130年祭活動中の登殿参列では、結界侵入未遂をしたまさにその場所で、結界内に入り、ご本部月次祭に参拝させて頂くことができました。
親神様の、真実たすけてやりたいという思召を強く感じずにはいられません。

今回、かんろだいを倒してしまった方は、捕まった時は興奮状態でしたが、気持ちが落ち着くと今度は動けなくなり、担架で境内掛本所へ運ばれたと言います。
精神疾患経験者として、荒波のように極端な精神的変化とそれに伴う身体の連動とが、よく理解できます。
重大なことをしてしまった。それに間違いはありませんが、たくさんの方が、大きな心でこの方のことを見ておられます。
身近な人間が起こしてしまった結果の重大さに、心を押し潰される気持ちもあるでしょう。にもかかわらず、すぐに対応し、大きな心で接される。本当に凄いな、天理教の教えを体現している人は、素晴らしいなと思います。

私は直接この方のことを知っている訳ではありません。しかし心の底から、この方のたすかりを願いたいと思います。
これは、皆様方にもお願いしたい。
そして、
「いちれつ『すまして』かんろだい」
と教えられている訳ですから、自分自身の心を澄ます努力と、それぞれの持ち場立場を活かして、この世界がより一歩でも陽気ぐらし世界に近づく努力を共々にさせて頂きたいと思います。

このみちハどふゆう事にをもうかな このよをさめるしんぢつのみち 六-4

ご清聴ありがとうございました。

柏手

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posted by 朱夏 at 21:29| Comment(0) | ひとことのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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