2017年01月09日

天理教教典・第一章 おやさま

天理教教典・第一章 おやさま

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

  よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから         一  1

  そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや         一  2

  このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする         一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。 それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聽かされる。

  いまなるの月日のをもう事なるわ
  くちわにんけん心月日や           一二 67

  しかときけくちハ月日がみなかりて
  心ハ月日みなかしている           一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、 日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の 働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。
 更に、教祖は、

  このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ          一 21

  せめるとててざしするでハないほどに
  くちでもゆハんふでさきのせめ         一 22

  なにもかもちがハん事ハよけれども
  ちがいあるなら歌でしらする          一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

  だん/\とふてにしらしてあるほどに
  はやく心にさとりとるよふ           四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、

 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。            (明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。 そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされ たばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召をうなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

  このさきハみちにたとへてはなしする
  どこの事ともさらにゆハんで          一 46

  やまさかやいばらぐろふもがけみちも
  つるぎのなかもとふりぬけたら         一 47

  まだみへるひのなかもありふちなかも
  それをこしたらほそいみちあり         一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神 などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

  たすけでもをかみきとふでいくてなし
  うかがいたてゝいくでなけれど         三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

  いまゝでも月日のやしろしいかりと
  もろてあれどもいづみいたなり         六 59

  このあかいきものをなんとをもている
  なかに月日がこもりいるそや          六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。
 更に又、

  いまゝでハ月日とゆうてといたれど
  もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打 ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

  こらほどにさねんつもりてあるけれど
  心しだいにみなたすけるで          一五 16

  いかほどにさねんつもりてあるとても
  ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里 ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、 存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。



  にんけんをはじめたしたるこのをやハ
  そんめゑでいるこれがまことや         八 37




posted by 朱夏 at 20:45| Comment(10) | TrackBack(0) | 天理教教典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めてコメントします。
いろいろと教理の事分かり易く説明ありがとうございます。勉強になります。
朱夏様に質問させていただきたいのですがどうぞよろしくお願い致します。

このさきハみちにたとへてはなしする
どこの事ともさらにゆハんで      一 46

やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら     一 47

まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり     一 48

このおふでさきの仰っている道は、信仰していく者の道であり、天理教と出会っても信仰していかなければ通らなくてもいいのでしょうか?
それとも信者でなく、道専務の人限定なのでしょうか?

このお歌で仰っている苦労は事情(身上以外)ですね。それなら事情でこの道に入る人は解決しないのですか?解決しても一時だけなのでしょうか?

「皆々身上から付き来る道や/\。身上でなくして付いた者は、ほんの一花のようなものや」
と仰っているので事情で道に入ったら事情の道を通らなければならないのでしょうか?
いろいろと迷ってしまってどうぞよろしくお願い致します。
Posted by フムフム at 2017年03月06日 19:51
フムフム様

コメントありがとうございますm(__)m
未熟者の私なりのお話になりますが、少し書かせて頂きます。

「ひながたを通る」という時、心の中に、「恐れ」のような感情が浮かんでくることが多いと思います。
それは、教祖の歩まれた道を知れば知るほど、「自分には無理ではないか」という怖じ気付いた心から出てくるものと思います。
しかしながら、「ひながた」は万人の為にあるものです。

フムフムさんが引用されたおふでさきの内容は、まさに、教祖の通られたひながたの道を端的に仰せられたものと言えるでしょう。
それを文字通りに通れと言われれば、怖じ気づいてしまうのが、人間の当然の反応だと思います。

そこで、現実的な話に掘り下げて思うところを書かせて頂きますが、信仰するしないに関わらず、人生には様々な困難、辛いこと、苦しいことが起こってきます。
その時に、自分の心を勇ませるもの、それが教祖のひながたです。

「ひながたを通る」とは、困難に出会ったとき、教祖の困難の中で勇んで通られたお手本を頼りに通るということです。

人生に起こってくる困難は、日々の心遣い、自分自身のいんねん、徳、そして神様の思召と、その原因は多種多様にあるでしょう。
しかし、教祖のひながたを学ぶとき、人間が人生で出会うであろう困難は、すべて先に通って下さっていることを知ります。
その時、その時、教祖はどんなお心で通られたか?それを心の励みとして、今目の前にある困難に心倒さず通るお手本があるというのが、信仰のありがたみだと思います。
信仰しているから苦労しなければならないとか、信仰しているから何の苦労もないとか、そういうことではなく、どんな中をも勇んで通るお手本があるという安心感こそが、信仰の真髄だと思います。

フムフムさんが最後に引用されたおさしづは、また別の話です。
確固たる信仰信念を持つためには、劇的にたすけられた、心が大きく切り替わった、という経験が必要だという意味のおさしづだと思います。
劇的と言っても、少しずつ変わる方もいらっしゃれば、事情の悩みから信仰をはじめ、たまたまその道中で身上の悩みが出てきてそれがたすけられ、強固な信仰信念を持ったという方もいらっしゃるでしょう。
このおさしづは、これから信仰するという人に対してのお言葉ではなく、にをいがけ・おたすけに励んでいる人や、本部員や教会長など、人に役割を与える立場の人に対して、どういう人をにをいがけ対象にするべきか、どういう人に御用を与えるべきかという趣旨のお言葉と言えるでしょう。

このおさしづと、おふでさきの内容の共通するところは、「○○すれば悩みが解決する」という話ではなく、日々の心が大切だということだと思います。
Posted by 朱夏 at 2017年03月06日 21:56
フムフム様

すいません、おさしづのところ、「にをいがけ・おたすけに」励む人というのは、恐らく対象外ですね。
にをいがけは、あくまでも万人に向かうものですから、やはり、人に役割を与える立場の人に対するお言葉に限られると思います。

すいませんm(__)m
Posted by 朱夏 at 2017年03月06日 22:08
丁寧なご返答どうもありがとうございます。
>「○○すれば悩みが解決する」という話ではなく、日々の心が大切だということだと思います。

そうですね。

事情での悩みが解決せずに、他に次から次へと事情が出てきて心を倒しそうになっていました。おやさまのひながたを見れば、現身を隠される前年まで十二日間の拘留と「しんどの仕損というは教祖や」となに一ついい事がなかった姿を見れば報われることはないのかなと思いますけど「神というものは在ると思えば在る。無いと思えば無い。なれど願う誠の心から見えてくる利益が神の姿やで」と身上なら完治、事情なら解決と思っていました。それが事情は解決しなくて悩んでいました。
どこかで見たのですが二代真柱様曰く「人にたすかってもらいたい一存になれば、自分の事を省みなくなりそれが自分が助かったのです」の様な主旨を見た記憶があるのですが、間違っていたらすみません。
確かに、悩んでいる状態は我が身の事を考えていると思います。
でも大道に出たい、谷底からせり上がりたい、その思いだけがあります。この考え方はダメなのでしょうか?
Posted by フムフム at 2017年03月06日 23:48
フムフム様

コメントありがとうございます☆

なるほど、事情が重なって、お悩みなんですね。
ご相談下さり、ありがとうございますm(__)m

以前、ある先生から、「自分の心遣いが悪いと思える時に起こって来る身上・事情はある程度納得できるけれども、自分が自分なりにでも一生懸命通っていると自覚している時に起こって来る身上・事情というのは、心に納まらず、辛い思いが溢れてくる。しかし実は、そんな時こそ、運命を大きく切り替えて頂けるチャンスなんだ」という趣旨のお話を伺いました。

どのようなご事情があるのかは解りませんが、フムフムさんのお話を読ませて頂いて、おそらく、自分なりに懸命に通っていらっしゃる最中なのだろうなと思います。
そういう中で起こって来る事情というのは、やはり、運命を大きく切り替えるチャンスをお与え頂いているのだと思います。

とは言え、実際に色々な対応をされているでしょうし、あるいは、自分の力でどうしようもないという状態にいらっしゃるのかも知れません。

私自身、つたない経験ではありますが、様々な思いがけない事情に悩まされ、泣くに泣けない日も通ってきました。
事情おたすけのために、なけなしの貯金を失ったこともありますし、こちらに何の非も無いのに、おたすけさせて頂いた相手から、誹謗を受けたこともあります。
また、ここには書けないような出来事もありました。

それらの事情そのものは、解決したものもあれば、成す術なく、成るに任せるしかないものもたくさんありました。
しかしそのどれもが、その時は辛かったけれど、私の心を磨いて下さるとてつもなく有難い出来事だったと、今は思えます。
こういうことは、これから先も、「たすけ一条」で歩む中に、数限りなく起こって来るだろうと思いながら歩んでいます。

そうした中で、大切にしているお言葉があります。
別席のお話の最後の方に「ずつなきことあればふしと思うがよろしい。ふしからよき芽がふき楽しみの道見えて来るのであります」とあります。「ずつなき」とは、「術無し」つまり、成す術がない、どうにもしようがなくて苦しいという意味です。

植物の「ふし」とは、まさに延び方が変わる瞬間ですから、人間の運命が切り替わる瞬間ともまさに一致するたとえですね。

今、フムフムさんは、運命が切り替わる只中にいらっしゃると思います。
今はお辛いと思います。
けれど、このご経験が、将来必ず、有難く思える日が来るはずです。
周りの方に愚痴を聞いてもらい、互いにたすけ合って、なんとかこの道中を通り切って頂ければと思います。

このたびのなやむところハつらかろふ あとのところのたのしみをみよ(九-36)

応援を致しますと共に、ご事情の解決をお祈りしております。
Posted by 朱夏 at 2017年03月07日 22:08
あたたかいお言葉ありがとうございます。
ブログの趣旨と違う質問をしてどうもすみませんでした。

運命が切り替わる只中にいると信じたいとおもいます。
心に響くおふでさきどうもありがとうございました。
Posted by フムフム at 2017年03月08日 19:20
フムフム様

いえいえ!

私自身、信仰を通してたすかっていく道中にある者です。
お互い、心倒しそうになる時には、たすけあって歩んでいきましょう!

更新が滞っておりますが、ボチボチと更新して参りますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m
Posted by 朱夏 at 2017年03月08日 20:33
こちらこそよろしくお願い致します。

今のご時世、どの宗教も信者数が減少していく中(イスラム教は別ですが)布教されるのは大変だと思います。私は一信者ですが、布教師の方は本部員より大教会長より立派であると思っています。
私自身、人に対して何もできてませんけど、教理に対する興味は人一倍ありますので、また無理のない範囲で更新をされるのを楽しみにしています。
Posted by フムフム at 2017年03月09日 22:27
初めまして。
 最近、おさしづの「とめふで」なるものをネットで知りまして、おさしづで検索したら、このサイトを見つけました。
 これは、終末論のようなもので、時期が去年か今年と言われています。私は、聞いたことも見たこともなく、周りも誰も知りませんでした。
 とめふでは、ご存知でしたか? また、この内容をどう思いますか?
 私は、これは贋作かと思いましたが、おさしづを研究したこともないので、質問させて頂きました。
  
Posted by TK at 2017年03月31日 22:57
TK様

初めまして!コメントありがとうございます☆

通知メールがなぜか迷惑メールに振り分けられており、気付くのが遅くなってしまいました。
ご返信が遅くなり、申し訳ありませんm(__)m

「とめふで」というのは、20年近く前に発売された、とあるムックに掲載されていたものかと思います。
仰る通り、「終末論」のような内容ですが、語尾や細かな表現に公刊おさしづには見られないようなものがあり、違和感がありました。
改めて読んでみたところ、例えば「刻限」と題して日付が書かれていますが、「【本席の刻限】明治十五年十月二十九日(旧九月十八日)」など、「本席」が定まる遥か以前の日付で書かれている箇所など、どう考えても本物とは思えない表記も散見されます。

現実に、「おさしづ」や「おふでさき」を真似て、教祖や本席様以外の人が作った文書は数限りなくありますし、「とめふで」もその一種かと、個人的には思っています。
Posted by 朱夏 at 2017年04月05日 13:49
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