2013年09月20日

稿本天理教教祖伝逸話篇一九六 子供の成人

稿本天理教教祖伝逸話篇一九六 子供成人

教祖(おやさま)の仰せに、
「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供成人が分かるであろ。」
と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。


<今現在できる、自分なりの「さとり」>
親から子へ、子から孫へと代々教えを伝えて行くことを「縦の伝道」と言います。
「縦の伝道」を考える上で、大切な御逸話だと思います。

代々信仰を伝えることは、簡単なようでいて、非常に難しい面もあります。
子どもは成長の過程で親に反発心を持つものですし、その反発心が信仰心の否定に向かうこともあります。

「親の教が、隅々まで届いたなら、子供成人が分かる」というお言葉は、この御逸話の核となる部分ですが、どういう風に受け取れるでしょうか?
人によって解釈は違うと思いますが、私のさとりはこうです。

まず親自身が信仰心をしっかりと持ち、日々成人の道を歩むことです。
子どもに言葉で教えを伝えることも大切なことですが、時に行動で、時に無言の背中でと、全方向から教えを伝えていけば、自ずと伝わるべき事は伝わります。
そんな中で、子どもが成長の過程で親に反発心を持ち、お道の信仰を否定したとしても、それを成長の上で大切な経験なのだと、子どもが確実に成長していることを見出し、喜べれば、親の教えが隅々まで伝わりつつあると、さらに喜べるのではないでしょうか。
親自身がそこまで成人できれば、子どもが一時期は反発したとしても、またしっかりと道を歩んでくれるでしょう。

教えが伝わらないことを嘆くのではなく、自分自身がまずより一層の成人をしていくこと、子どもの日々の成人をしっかり見出すことが大切なのだと思います。
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posted by 朱夏 at 05:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 稿本天理教教祖伝逸話篇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
この逸話に関しては自分も凄く興味があって、そして分からないものでもあります。
言葉そのままに受け取りたいのですが、もしかすると当時聞いた人にも理解できずに、記憶を頼りに残された言葉じゃないかな、と感じています。

自分なりには、
子供が思うようにしないからと怒鳴るような態度を如何に取るかと言うことよりも、教える親のほうが子供の純粋さを信じていなくて、理解できていないという事は本当に普段から感じるところです。
ただ、その先の、親の教えが隅々まで届いたなら子供の成人が分かるであろう、と言う部分・・・

ぁ!、今想い付いたのですが、
もしかすると、親神様の教えが行き届いてなければ、その親自体が子供に対して親としてのしつけが出来るはずが無い、と言われているんじゃなかろうか?
人間は何歳に成ったとしても親神様からするとみんな子供。
人間に親神様の教えが届いていないなら、親心を持って子供に接する事が難しい。
早く世界中に道を浸透させてもらいたい。

そういう神様からの、世界を助けたい想いの話ではないでしょうか?

よろづよの世界一列見晴らせど、旨の分かりた者はない。
そのはずや、説いて聴かした事はない、知らぬが無理ではないわいな。
この度は神が表へ現れて、何か委細を説き聴かす。
この所大和の地場の神館と言うていれども元知らぬ。
この元を詳しく聴いた事ならば如何な者でも恋し成る
聞きたくば訪ね、来るなら言うて聴かす、よろづ委細の元なるを。
神が出て何か委細を説くならば世界一列勇むなり。
一列に早く助けを急ぐから世界の心も勇めかけ。

なむてんりおうのみこと
よしよし

そういうことに感じます。
Posted by 小澤哲二 at 2013年10月08日 13:29
小澤哲二さん

初めまして!
コメント頂き、ありがとうございます☆

逸話篇に限らず、教祖のお言葉は、本席様によるおさしづも含めて、すべて一つの解釈に留まらない深さがあるものですね。

小澤さんの仰る通り、この御逸話のお言葉での「親」という意味が、「子を持つ人間」や「理の子を持つ人間」という受け取り方と、「親神様」という受け取り方の大きく二通りになるでしょうね。
貴重なお考えをご教授頂き、ありがとうございます☆

原典や逸話篇などから親神様の思召をさとり取ろうとする時、一度得られたさとりに固執するのではなく、何度も反芻しながら、さとり取り続けることが大切なのではないかと思います。
自分で考えるのももちろん、教会での神殿講話や先輩方のお話など、表面的には同じお話、同じお言葉の引用であっても、何度も触れ続けることで、心底得心できるようになれるのだと思います。

お気づきの点などあれば、今後もお気軽にコメント頂けると嬉しいです☆
今後とも、どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
Posted by 朱夏 at 2013年10月08日 20:50
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