2013年08月22日

稿本天理教教祖伝逸話篇一九三 早よう一人で

稿本天理教教祖伝逸話篇一九三 早よう一人で

これは、梶本宗太郎の思い出話である。
教祖(おやさま)にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖(おやさま)の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ。」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
それでも、「今やったやないか。」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖(おやさま)は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。
櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
「早よう、一人で来るようになったらなあ。」
と、仰せ下された、という。
私の弟の島村国治郎が生まれた時には、
「色の白い、綺麗な子やなあ。」
と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。
吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖(おやさま)の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。
教祖(おやさま)お声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖(おやさま)は、 やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった。
藤倉草履 - Google 検索.png
藤倉草履 - Google 検索


<今現在できる、自分なりの「さとり」>
梶本宗太郎先生の御逸話が続いています。
当時、梶本宗太郎先生はまだ幼い子どもでしたが、教典や教祖伝、そして逸話篇が編纂される頃には、宗太郎先生の思い出話が貴重な資料となりました。
この御逸話で語られている教祖(おやさま)のお顔立ちや体格は、そのまま教祖伝・第八章親心の「面影」として書かれています。

面影:
高齢の教祖(おやさま)にお目に掛った人々は皆、譬えようもない神々しさと、言葉に尽せぬ優しさとが、不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも心の温まる親しさを覚えた。
教祖(おやさま)は、中肉中背で、やゝ上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色もよく、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。
お髪は、年を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うて居られ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。
眼差は、清々しく爽やかに冴えて、お目に掛った人々は、何人の心の底をも見抜いて居られるというのはこのような眼か、と思った。
足腰は、大そう丈夫で、年を召されても、腰は曲らず、歩かれる様子は、いかにも軽ろやかで速かった。
教祖(おやさま)にお目に掛る迄は、あれも尋ね、これも伺おうと思うて心積りして居た人々も、さてお目に掛ってみると、一言も承わらないうちに、一切の疑問も不平も皆跡方もなく解け去り、たゞ限りない喜びと明るい感激が胸に溢れ、言い尽せぬ安らかさに浸った。
お声は、平生は優しかったが、刻限々々に親心を伝えられる時には、響き渡るような凛とした威厳のある声で、あれが年寄った方の声か、と思う程であった。
教祖(おやさま)は、子供に対しても、頗る丁寧に、柔らか優しく仰せられたというが、その優しいお言葉に、ひながたの親としての面影を偲び、刻限刻限に親神の思召を伝えられた、神々しくも厳かなお声に、月日のやしろとしての理を拝する。厳しく理を諭し、優しく情に育くんで、人々を導かれた足跡に、教祖(おやさま)の親心を仰ぐ。


さて、この御逸話の中で注目したいのは、何度もお菓子を下されたという点です。
一度にたくさん与える訳でもなく、また一度与えたから終わりという訳でもなく、必要なだけ、必要なだけ、何度でも与えられたというところです。

この御逸話を読むと、「満足を与える」ということについて、考えさせられます。
大人でも子どもでも、一度にたくさん与えられれば、その時は喜びますし、気分的には満足できるでしょう。
しかし、貰いに行けば必ず必要なだけ与えられることほど、「安心感」を得られるものはありません。
本当の満足とは、この「安心感」なのではないでしょうか。
また、一度与えられたらもうそれでお終いということであっては、何度も通う気持ちは生まれません。
必要な分だけ、その都度その都度与えられるというのが、本当の満足であり、親を慕う心へと繋がるのだと思います。

血縁的な意味でも理の上でも、子どもが居るなら、こういった満足感を与えたいものです。
また当然ながら、神様の御守護はこのように過不足無く、その都度その都度、絶え間なくお与え下されています。それにしっかりと気付くことができれば、おのずと満足感、安心感で満たされることでしょう。

子に満足を与える親心と、親のお与え、神様の御守護に気付き、もたれ切れる心を育んでいきたいものです。
その為には何よりもまず、親自身が、子どもを満足させる心遣いで通ることが大切ですね。
<参考リンク>
藤倉草履 - Google 検索
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posted by 朱夏 at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 稿本天理教教祖伝逸話篇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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