2010年09月10日

稿本天理教教祖伝逸話篇七 真心の御供

稿本天理教教祖伝逸話篇七 真心の御供

中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖(おやさま)にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖(おやさま)のお目にかけた。
すると。教祖(おやさま)は、いつになく
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖8おやさま)にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
例によって、こかんが教祖(おやさま)のお目にかけると、教祖(おやさま)は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖(おやさま)には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖(おやさま)に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖(おやさま)は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と仰せられた。





<今現在できる、自分なりの「さとり」>
まず、さとらせて頂くのは、物の珍しさや価格ではなく、そこに込められた「真心」が大切だということです。
日常私たちが御供えをさせて頂く際にも、その金額ではなく、どれだけ精一杯の真心が込められた御供えをできるかが大切だと思います。

普段の生活の中でも、例えば、誰かとプレゼント交換などをする際、プレゼントの金額や珍しさを競うのではなく、それを選んだり、作ったりした行動、努力や、どんな想いで選び出した物なのかが重要であることは、誰しも経験することだと思います。
どんな高価な物をもらっても、そこに何の想いも感じられなければ、喜べないものです。
一方、たとえお金は掛かっていなくても、自分のことを想って一生懸命作ってくれた物や、選び歩いてくれた物なら、心底感動できるはずです。
また自分がプレゼントした物でも、想いの込めた物に感動してくれるなら、それは、単に高価な物をプレゼントした時よりも、嬉しく感じられます。

親神様は、そんな「真心」を丸ごと受け止めて下さるのだと思います。

親神様への御供えはもちろんですが、人や関わっている仕事に対しても、真心を持って接していくことが大切だと思います。

<blog内関連記事>
天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇(こうほんてんりきょうきょうそでんいつわへん)
天理教勉強blog: 天理教用語解説「さとし・さとり」
天理教勉強blog: 天理教用語解説「ふせこみ」
天理教勉強blog: 天理教用語解説「つくし・はこび」
posted by 朱夏 at 17:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 稿本天理教教祖伝逸話篇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
残酷非道天理よ、心と魂を無視して来たツケは大きいぞ。

天理教幹部よ、「生まれ変わり」「因縁」を解きながら自らは霊の世界を完全に無視をした。
魂なくして生物が生まれるはずはない。先祖なくして今の命がある事実さえ無視をした。
まるで、自然界から命が生まれた位しか思っていない歪んだ天理教である。

天理教の死を前にして、言っておく。
過去の天理教の悪業は、結果は一般人の罪より大きいぞ。
「お前ら天理こそ最悪な因縁を積んだのだ。」
死後の地獄のような苦しみを覚悟する事だな。又、来生は人間には生まれる事は絶対に無理だ。
犯した冷酷非道なカネ盗りは度を過ぎている。だがもう今さらどうする事もできない。
お前らの死後は地獄のような最下層の低級霊の集団の魂の集まりの中で
悶え苦しむことをお忘れなく。

現世では、金銭に異常な執着を持ちゼイタク三昧楽しんだ。
豪華な大教会や本部施設は、末端信者の恨みの塊である。
信者からウソ八百で脅し、末端に無理な要求で高額のカネを巻き上げて
平和な家庭や人生をブチ壊し、確かに黒豚宗教に肥大した。
だが、大きな悪因縁を積み上げて来た事実に最後まで、目覚めることはなかった。
よーく考えろ、信者、末端から無理にカネを吸い取る現実は宗教ではない。

教祖死後、信仰はなかった(形骸化)天理の死を前にして考えろ。このワルども!
お前らは、大切な「魂」を拒否した結果が、天理危篤を招いたのだ。
Posted by てやてや at 2010年12月31日 04:44
☆てやてや さん

はじめまして☆コメントありがとうございますm(_ _)m

私は、天理教の幹部ではなく、末端信者なので、天理教団の内部事情などは、よく分かりません。
「組織」を守る上で、仕方のないことがたくさんあるのでしょうし、その内部にいるのも、「神」ではなく、人間ですから、疑問に感じてしまうこと、反感に思うことが出てきても仕方ないのかもしれません。
私自身、そうした思いをたくさん持って、「天理教の信仰なんてしたくない」と思ったこともあります。

でも大切なのは、天理教団を信仰することではなく、人間が生きていく上での真理を求めることだろうと思い、今も天理教の信仰を続け、深めています。
このblogを立ち上げたのも、そうした思いからです。

天理教の信仰者は、末端信者であろうと、教会長や本部員などの肩書があろうと、信仰を深めようとしている「人間」にすぎません。
教えを学ぶ中で、そうした先輩方の言動に、「教えを身につけられていないじゃないか」と思うことも、しばしばあります。でも、そうした人から学ぶこともあるし、反面教師として、自身を反省することもできると思います。

天理教団を信仰するのではなく、人間が生きていく上での真理を求めるために、その教団を利用させて頂く(出版物を読んだり、おぢば周辺施設の整備を進めてもらうなど)と考え、今の私は、むしろ教団があることに感謝できるようになりました。
Posted by 朱夏 at 2010年12月31日 17:36
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック