2017年08月01日

立教180年8月1日・月次祭神殿講話

ただいまは、当教会の8月の月次祭を賑やかにつとめ終えさせて頂きまして、誠にありがとうございます。

ご存知の無い方も多いと思いますが、去る7月26日、かんろだいにふしをお見せ頂きました。
この件につきまして、思うところをお伝えしたいと思います。少しお付き合いください。

柏手






まず、天理時報にその内容と、内統領先生の談話が掲載されていますので、拝読いたします。

7月26日午後6時20分ごろ、本部神殿結界内への侵入者により、かんろだいの上部が倒されるというふしを見せられた。
その後、定時に夕つとめが勤められた。
夕つとめ後、急遽、本部員会議が開かれ、その席で、真柱様からお言葉があった。引き続き本部員会議で、このふしについてねり合われた。

続いて、内統領先生の談話です。

かんろだいに大ぶしをお見せいただきました。
ぢばにお鎮まりくださる親神様、ご存命の教祖に、ただただ申し訳ない思いでいっぱいです。
月次祭の当日、こどもおぢばがえりの始まる日であり、帰参者の方に心配や動揺をお掛けしていることについて、ぢば近くに勤める者として深く反省し、お詫び申し上げます。
親神様、教祖、ぢばは、その理一つであります。ぢばに据えられたかんろだいは、私たちの信仰の芯であります。そこにふしを見せていただいたことは、私たちの信仰態度が、親神様の思召に沿いきったものなのかどうかを、強くお知らせくだされたものと思案します。
お互い、ぢば一条、神一条の精神を再確認することが必要だと思います。神一条とは、自分の考え方に合わせて、親神様の教えを解釈する姿勢ではなく、教えに自分の考え方を合わせていくことです。そのことを、あらためて胸に治めさせていただきましょう。
現在、かんろだいは、下の二段のみが真座に坐します。明治14年、二段までが造られたかんろだいの石普請が頓挫し、翌年、没収されました。先人たちは、必死にこの道をお通りくださり、今日の姿を残してくださいました。
そのことを思うとき、現在当たり前のようにかんろだいを拝し、おつとめをつとめさせていただいている自分に、慣れや惰性があるのではないかと、反省の意を強く持ちました。
まずは教会本部内々の者から心を治め直し、真摯に親神様の思召をたずね、御心に沿ってつとめさせていただきます。
教内のようぼく・信者の皆さま方も、このふしを”我がこと”と捉えていただき、実の親である親神様にご安心頂けるように、それぞれの心を育てる機会とし、今回のことを活きぶしとさせていただけるように、共々おつとめくださるようお願いいたします。

という内容でございます。
私たち信仰者にとって、礼拝の目標であるかんろだいが倒されたというのは、非常にショックなことです。
私なりにさとり、思うところをお伝えしたいと思います。

まず非常に当たり前のことを申しますが、このようなふしが起こったそもそもの原因は、ご本部の神殿が、1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができるからです。礼拝場に入って真っ直ぐ結界まで進み、少し助走をつけて走り込めば、かんろだいまで誰も止めることは出来ずに入ることができてしまいます。
1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができるという状態は、こういうリスクがある上で成り立っているということです。
そう考えれば、結界侵入やかんろだいに近づくという行為が、これほどショックに感じられるほど滅多に起こらない事象であるということ自体が、むしろ奇跡的なことなのではないかと思うんです。

1年365日24時間どんな人でも何のチェックも無しにいつでも無料で参拝でき、かんろだいをほんの数メートルの間近で拝み見ることができる。これって、凄く有難いことじゃないですか。
悩んだとき、辛いとき、昼間でも夜中でも参拝できる。これほど心強いことはありません。
私の布教仲間の一人は、深夜にご本部に参拝したことが信仰の元一日だと言っていました。彼は教会の後継者という立場でしたが、お道から離れサラリーマンとして働いていました。しかし仕事で悩み、心が折れてしまった。家族にも職場の人にも何も言わず、ケータイの電源も切って、ただただ車を二日ほど走らせて辿り着いたのが、深夜のご本部だったそうです。今は、心が折れていたとはとても想像もつかない、元気で明るい布教師になって結婚もしています。
深夜にでも気兼ねなく参拝できるという環境にもし無ければ、彼はたすかっていなかったかも知れません。

この有難さは、誰かがかんろだいに不意に近づくというリスクの上に成り立っているんです。
まず、この有難みを味わいたいと思います。
内統領先生は談話の中で、「明治14年、二段までが造られたかんろだいの石普請が頓挫し、翌年、没収されました。先人たちは、必死にこの道をお通りくださり、今日の姿を残してくださいました。
そのことを思うとき、現在当たり前のようにかんろだいを拝し、おつとめをつとめさせていただいている自分に、慣れや惰性があるのではないかと、反省の意を強く持ちました。」と仰っています。
内統領先生の心情を吐露された内容ですが、これは、内統領先生に限らず、すべての信仰者が考えるべきことと思います。
かんろだいを毎日、何の気兼ねもなく拝み見ることができるのは、決して当たり前のことではありません。

さて、内統領先生の談話の中で、「このふしを”我がこと”と捉えて」と仰っています。
これは、「自分には何ができるか?」を考えることであって、必要以上に自分を責めることとは、まったく違います。
今日ご参拝の皆さまにはそんな心配は無いと思いますが、この点勘違いされる方が妙に多いですので、一応補足しておきます。
「自分には何ができるか?」と言っても、実際、できることはほとんど無い訳です。
なので、誤解を恐れずに言えば、あんまり考え過ぎない方が良いのではないかと思います。
人間、考え過ぎると、ろくなことがないですから。
とは言え、少し考えさせていただきたい。
今現在、かんろだいをすえかえられるのかどうなのか、今後の詳細については、まったく知らされておりません。
もし、かんろだいをすえかえられるのであれば、そこには、時間も手間もお金も掛かります。その中で、一信仰者には手間の負担はなかなか難しいものがありますから、お金の面を、わずかでも担わせて貰おうというのも、「自分にできること」のひとつでしょう。
また、先ほどお話したように、かんろだいを拝み見ることができるのは、当たり前のことではなく、非常に有難いことなのだと、今までの心の内を反省して、その有難さを味わうというのも、またひとつです。
そして、かんろだいはよろづたすけのおつとめの目標です。目に見える形でのかんろだいが、物理的に存在しようとしまいと、人のたすかりを願って真剣におつとめをつとめる。これもまた、「自分にできること」のひとつです。
非常に簡単なことですが、こういう「姿勢を正す」という意識こそが大切だと思います。

最後に、私自身のたすかった話をさせて頂きます。
ご承知の通り、私の信仰の元一日は、精神科の閉鎖病棟です。
実は、閉鎖病棟に入院するきっかけの一つは、結界侵入未遂をしたことにあります。
ですので、今回、かんろだいを倒してしまった方のことを、他人事と思えない自分がいます。
本当に、たすかって貰いたいなと思いますし、きっとたすかって頂けると信じています。
結界侵入未遂をしたこの私が、神様にたすけて頂き、現在教会長として日々を明るく陽気につとめさせて頂くことができています。
130年祭活動中の登殿参列では、結界侵入未遂をしたまさにその場所で、結界内に入り、ご本部月次祭に参拝させて頂くことができました。
親神様の、真実たすけてやりたいという思召を強く感じずにはいられません。

今回、かんろだいを倒してしまった方は、捕まった時は興奮状態でしたが、気持ちが落ち着くと今度は動けなくなり、担架で境内掛本所へ運ばれたと言います。
精神疾患経験者として、荒波のように極端な精神的変化とそれに伴う身体の連動とが、よく理解できます。
重大なことをしてしまった。それに間違いはありませんが、たくさんの方が、大きな心でこの方のことを見ておられます。
身近な人間が起こしてしまった結果の重大さに、心を押し潰される気持ちもあるでしょう。にもかかわらず、すぐに対応し、大きな心で接される。本当に凄いな、天理教の教えを体現している人は、素晴らしいなと思います。

私は直接この方のことを知っている訳ではありません。しかし心の底から、この方のたすかりを願いたいと思います。
これは、皆様方にもお願いしたい。
そして、
「いちれつ『すまして』かんろだい」
と教えられている訳ですから、自分自身の心を澄ます努力と、それぞれの持ち場立場を活かして、この世界がより一歩でも陽気ぐらし世界に近づく努力を共々にさせて頂きたいと思います。

このみちハどふゆう事にをもうかな このよをさめるしんぢつのみち 六-4

ご清聴ありがとうございました。

柏手

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2017年07月14日

二十年、三十年経ったなら

poster_2017.jpg

今年も、夏のこどもおぢばがえりの季節がやって来ました。

私のお預かりしている教会に、Iくんという、新米のよふぼくさんがいます。
身上の悩みをきっかけに、別席をオススメして、よふぼくになって下さいました。今、30代半ばの青年さんです。
彼を別席にご案内する際に、『おぢばがえり』という言葉を使うと、なぜか非常に嬉しそうな表情をされました。
最初は気のせいかなと思っていたのですが、こんな話を聞かせてくれました。

「子どもの頃、周りの友達がみんな、毎年こどもおぢばがえりに参加して、楽しかった楽しかったと、思い出を語り合っていた。それを聞いて自分も行ってみたかったけど、色んな事情で、参加できなかった。すごく行ってみたかったぁ。」

これを聞いて、私はとても驚きました。こどもおぢばがえりって、凄いなぁと思いました。彼ににをいをかけたのは、私ではなく、こどもおぢばがえりに参加して、ただ楽しかったと話している同級生だったんです。たまたま、私の側で、花開いたに過ぎません。
こどもおぢばがえりを通して、子ども達に楽しんでもらうということは、その子達におぢばのにをいをかけるだけではなく、おぢばに帰っていない子ども達にもにをいをかけることになり、20年も経って、人が助かるきっかけになることを思い知らされました。

20年。
人間にとっては、とてつもなく長い時間です。ですが、立教当初の神様のお言葉に、

「今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」

と仰せ下さいます。

よくよく考えれば、代を重ねた信仰者も、生まれた時から絶えず実の親ににをいを掛けて頂いているにも関わらず、実際に信仰心に目覚めるのは二十年以上経ってからのことでしょう。
先案じせず、今できる精一杯の種まきが、将来の人材育成に必ず繋がると信じます。

今年の夏も、身近な子ども達に楽しんでもらえるよう、精一杯、声掛け、引率、ひのきしんにつとめましょう!

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2017年07月13日

天理教教典・第十章 陽気ぐらし

第十章 陽気ぐらし

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。 (明治三〇・一二・一一)
 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。 (明治三三・一一・二〇)
 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。
心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。 (明治三五・九・六)
 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109

  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110

  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。



  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4


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2017年07月12日

天理教教典・第九章 よふぼく

第九章 よふぼく

 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これをよふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ
  よふぼくよせるもよふばかりを         三 128

  よふぼくも一寸の事でハないほどに
  をふくよふきがほしい事から          三 130

  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから         一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

  この木いもめまつをまつわゆハんでな
  いかなる木いも月日をもわく          七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

  にち/\によふほくにてわていりする
  どこがあしきとさらにをもうな         三 131

 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、初めて、こうのうを見せて頂ける。

精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に 乗りて働く程に。 (明治三一・一〇・二)
と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

  たん/\とよふぼくにてハこのよふを
  はしめたをやがみな入こむで         一五 60

  このよふをはじめたをやか入こめば
  どんな事をばするやしれんで         一五 61

 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで         八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
  なにゆハいでもしかとうけとる         三 38

  わかるよふむねのうちよりしやんせよ
  人たすけたらわがみたすかる          三 47

 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。



  しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
  なにもこわみハさらにないぞや         三 77

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2017年06月14日

天理教教典・第八章 道すがら

第八章 道すがら

 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が 心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7

  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3

  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそ のままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89

  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90

  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91

  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93

  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。(明治二一・六・二)
 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが一つの理。 (明治二三・四・一七)
 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。



  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

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2017年06月13日

天理教教典・第七章 かしもの・かりもの

第七章 かしもの・かりもの

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり          六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら         三 41

  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか          三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

  めへ/\のみのうちよりのかりものを
  しらずにいてハなにもわからん         三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。 (明治二二・六・一)
と教えられている。

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。 (明治二二・二・一四)
自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、自由自在という。 (明治二一・一二・七)
 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り 除きにくくなるものである。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや         一 52

  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり         一 53

 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

  せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
  神がほふけやしかとみでいよ          三 52

  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや          五  4

  めへ/\の心みのうちどのよふな
  事でもしかとみなあらわすで         一二 171

  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで        一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払う ようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば
  あとハめづらしたすけするぞや         三 98

 しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。

 世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。 (明治二八・七・二二)
 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。



  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120


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2017年06月11日

天理教教典・第六章 てびき

第六章 てびき

 人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。
 しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。
 親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

  月日にハたん/\みへるみちすぢに
  こわきあふなきみちがあるので         七  7

  月日よりそのみちはやくしらそふと
  をもてしんバいしているとこそ         七  8

 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし
  神のせきこみてびきなるそや          二  7

  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
  神のみちをせてびきしらすに          二 22

 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。
 しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。

  にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ        一四 34

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

  一れつのこどもハかわいばかりなり
  とこにへたてわさらになけれど        一五 69

  しかときけ心ちがゑばせひがない
  そこでだん/\ていりするのや        一五 70

 親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
 およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。
 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんぢつに心さだめてねがうなら
  ちうよぢざいにいまのまあにも         七 43

  いまゝでハとんな心でいたるとも
  いちやのまにも心いれかゑ          一七 14

  しんぢつに心すきやかいれかゑば
  それも月日がすぐにうけとる         一七 15

 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。 (明治三一・五・九)
と示されている所以である。故に、

日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃならん。 (明治二三・七・七)
と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。



  しやんして心さためてついてこい
  すゑハたのもしみちがあるぞや         五 24


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2017年06月08日

天理教教典・第五章 ひながた

第五章 ひながた

 教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以てこれを示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。
 教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名をみきと申される。
 幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衞の妻となられた。
 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞をして、瀕死の児を救われた。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正気に復した。
 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難への門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁難攻撃、或は又、白刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、てをどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙つてなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。
 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まもりや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。
 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心を教化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は温かく或は鋭く、折にふれ、人に応じて導かれた。
 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内から関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。
 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめすることは、直に、教祖の獄舎への御苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働 きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。
 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立つたが、高齢の教祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。
と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示され た。そして又、

心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。
と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは 火、水、風。
さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。
とて、胸のおき処を諭された。
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御苦労を、気遣うたからである。
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。
との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。
と仰せられた。
 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。



  にんけんをはじめたをやがも一にん
  どこにあるならたつねいてみよ         八 75

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2017年06月07日

天理教教典・第四章 天理王命

第四章 天理王命

 親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。
 紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています。

  このよふのにんけんはじめもとの神
  たれもしりたるものハあるまい         三 15

  どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ
  それがたん/\さかんなるぞや         三 16

 親神は、人間世界の根本にていまし、この世を創められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、悉く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その自由の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、感じることが出来る。まことに、元の神・実の神にています。
 即ち、天では月日と現れ、さやけくも温かい光をもつて、余すくまなく、一れつにこの世を照らされる。

  このよふのぢいと天とハぢつのをや
  それよりでけたにんけんである        一〇 54

 人は、天地の間に生を享け、至妙な自然の調和の中に生存している。遍く月日の光を身に頂いているように、隔てなく天地の恵に浴している。天地は月日の理で、人は、天地抱き合せの、親神の懐に抱かれて、限りない慈しみのまにまに生活している。

  このよふのしんぢつのをや月日なり
  なにかよろづのしゆこするぞや         六 102

 親神は、元初りに当り、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護をもつて、この世人間を造り、恆にかわることなく、身の内一切を貸して、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万一切を恵まれている。
 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている。

 くにとこたちのみこと 人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。
 をもたりのみこと 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。
 くにさづちのみこと 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。
 月よみのみこと 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。
 くもよみのみこと 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。
 かしこねのみこと 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。
 たいしよく天のみこと 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。
 をふとのべのみこと 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理。
 いざなぎのみこと 男雛型・種の理。
 いざなみのみこと 女雛型・苗代の理。
 即ち、親神天理王命の、この十全の守護によつて、人間をはじめとし、万物は、皆、その生成を遂げている。

  たん/\となに事にてもこのよふわ
  神のからだやしやんしてみよ          三 40・ 135

 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。
 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。

  このせかい一れつみゑる月日なら
  とこの事でもしらぬ事なし           八 51

  月日よりみなそれ/\とみさだめて
  善とあくとをみハけするぞや          八 52

 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、思召のままに守護されている。

  にんけんのわが子をもうもをなぢ事
  こわきあふなきみちをあんぢる         七  9

  それしらすみな一れハめへ/\に
  みなうゝかりとくらしいるなり         七 10

  このせかいなにかよろづを一れつに
  月日しはいをするとをもゑよ          七 11

 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ままな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児のようで、これほど危いことはない。

  どのよふなくどきはなしをするのもな
  たすけたいとの一ぢよばかりで         七 26

  一れつのむねのうちよりしんぢつに
  はやくわかりた事であるなら          七 27

  それからハ月日よろづのしはいする
  なにかよろづのたすけするぞや         七 28

 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍しい守護を見せられる。

  月日にハせかいぢううハみなわが子
  かハいいゝばいこれが一ちよ         一七 16

 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。
 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。

  どのよふなたすけするのもしんちつの
  をやがいるからみなひきうける         七 101

 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。



  あしきをはらうてたすけたまへ
  てんりわうのみこと

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2017年05月08日

天理教教典・第三章 元の理

第三章 元の理

 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つつたなら、 宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

   月日よりたん/\心つくしきり
   そのゆへなるのにんけんである      六 88

  このよふのしんぢつの神月日なり
   あとなるわみなどふくなるそや      六 50

   にんけんをはぢめよふとてたん/\と
   よせてつこふたこれに神なを       六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな
  くにとこたちにをもたりさまや         一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

  月日にわせかいぢううをみハたせど
  もとはじまりをしりたものなし        一三 30

  このもとをどふぞせかいへをしえたさ
  そこで月日があらわれてゞた         一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで         四 55

  このよふをはぢめだしたるやしきなり
  にんけんはじめもとのをやなり         六 55

  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから         六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

  この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢさいを         八 47

  このはなしなんでこのよにくどいなら
  たすけ一ぢようけやうのもと          八 48

 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり          四 62

  せかいぢう神のたあにハみなわがこ
  一れつハみなをやとをもゑよ          四 79

  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんというわさらにないぞや        一三 43

と教え、更に又、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから        一四 25

  せかいにハこのしんぢつをしらんから
  みなどこまでもいつむはかりで        一四 26

  このさきハせかへぢううハどこまでも
  よふきづくめにみなしてかゝる        一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想であ る。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつ けられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。


  ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
  あしきのことはいはんでな
  このよのぢいとてんとをかたどりて
  ふうふをこしらへきたるでな
  これハこのよのはじめだし






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posted by 朱夏 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 天理教教典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする